桔梗おぢのブラブラJournal

突然やる気を起こしたり、なくしたり。桔梗の花をこよなく愛する「おぢ」の見たまま、聞いたまま、感じたままの徒然草です。

2012年三月の薬師詣で・川口市

2012年03月08日 23時30分54秒 | 薬師詣で

 三月の薬師詣で。埼玉県の川口市には「川口三薬師」と呼ばれる薬師如来が三体あると知って、川口市内を歩くことにしました。
 三薬師を祀るのは慈林寺、薬林寺、光音寺という三か寺です。

 薬師如来の縁日である八日は夕方から雨という予報でしたが、もっと早い時間に降り出す可能性もあるわけで、どうするかなァ……三薬師のある方角はバラバラなので、とりあえずは光音寺と薬林寺の二か寺だけでも巡るか、と決めて出かけることとしました。

 

 武蔵野線を東川口で降りて、はるばる横浜の日吉まで行く埼玉高速鉄道に乗り換え、五つ目の川口元郷駅で降りました。
 川口元郷は地下駅なので、地上に出るまで結構歩かなければならない上に、ジグザグの階段を上ったり、エスカレーターに乗ったりしているうちに方向感覚を失ってしまいました。
 この駅は一昨年の十一月、旧日光御成道の川口宿を訪ねたときに利用した駅です。齢を重ねたとはいえ、かつて一度でも訪れたことのある駅、しかもわずか一年半前であれば、駅前の風景が蘇ってきて、なんとなくハハ~ンと合点が行くものですが、階段を上り切って目の前に広がったのは、とんと憶えのない景色でした。地上出口はほかにもありそうなので、前とは異なる出口に出たのかもしれません。

 薬師詣でをするときはちょっとした遠出になるので、目的のお寺だけでなく、歩く道筋に寺社や文化財があれば、できるだけたくさん巡ってみようとします。
 地図を見ると、最初に目指す光音寺に到るまでに二つのお寺があったので、寄って行くことにしました。

 川口元郷駅近くには高さ185メートル、五十五階建てのエルザタワー55という超高層マンションがあります。八年前の2004年、東京・汐留地区に高層マンションが建設されるまで、日本一の高さを誇ったマンションです。ちなみに今日現在(2012年三月)の高さの順位は全国八位です。付近を歩いていると、どこにいても見ることができます。




 最初に訪ねたのは正覚寺です。
 我が宗派(曹洞宗)のお寺でありましたが、山門は閉ざされ、通用門も開いていなかったので、カメラに収めることができたのはこの山門だけでした。左・松の木越しに写っているのはエルザタワー55。

 曹洞宗のお寺であれば、本堂に参拝したあと、墓域を訪れて、歴住の卵塔を見つけ、焼香することを自分に課しているのですが、ざっと見渡したところ、閉ざされた山門以外に入口はありませんでした。
 お寺のほうでは歴住の墓所に敬意を評してほしいと私に依頼した憶えはないのですから、知ったことかということかもしれませんが、夜ならいざ知らず、昼日中に門を閉じているお寺はあまりありません。これまで私は数え切れぬほどのお寺を巡ってきましたが、ビシッと門を閉じていたお寺は片手があれば足りるほどの少なさです。
 しかし、その中にまた指を折る寺が我が曹洞宗のお寺だとは、トホホ……。

 「新編武蔵風土記稿」には、「(元郷村)正覚寺 曹洞宗、江戸貝塚青松寺末、永喜山と号す。本尊三尊の弥陀を安ず。開山は則本寺(青松寺)六世の僧にて久室と呼べり。天正十三年六月二十五日寂す。開基は平柳蔵人なり。法謚を柳国院覚相永正居士と号す。永禄七年正月八日、下総国府台にて討死せりと云」と記されています。
「下総国府台」とは二度にわたる北条対里見の戦のうち、二度目の戦のことです。



 正覚寺から100メートルほどで随泉寺(真言宗智山派)。
「新編武蔵風土記稿」には「横曽根村吉祥院末、光明山と号す。境内に権律師頼誓天文十一年十一月九日と彫たる古碑あり。是開山なりと云。されど当寺六世法印祐智、宝暦六年十二月二十八日と記せしものあれば、頼誓を開山とせしは時代若干違へり。信ずべからず。本尊阿弥陀を安ず」とあります。



 二つの寺に寄り道しながら、川口元郷駅から約二十五分かけて薬師如来のおわす光音寺に着きました。
 創建年代は不詳ですが、本尊の薬師如来は「新編武蔵風土記稿」に「本尊薬師は昔古荒川
より出現せし像なり。則其所の名を動木堂淵と呼ぶ。故に此像をも土人動木堂薬師といへり。又此像及び樋爪村薬林寺・慈林村宝厳院の薬師を合せて、此邊の三薬師と称す」と記されています。

 正覚寺とは違って境内に入ることはできたものの、本堂前には鉄柵があって近づくことができません。焼香するところもないので、いささか離れたところで手を合わせるのみ。
 ここも曹洞宗のお寺です。川口の曹洞宗寺院はちょっぴりおかしいゾ、と誰も聞いていないのに、呟く私でした。



 墓地に入ることはできたので、歴住の墓所を捜して焼香。
 本堂の真後ろにありましたが、改修されたようで、見るからに新しい卵塔ばかりでした。

 もう一つの薬師如来を訪ねますが、光音寺からはちょっぴり距離があります。目指すのは末広交差点。岩槻街道と埼玉県道107号・東京川口線が交差する地点です。




 岩槻街道に出ると、薬林寺近くに旧田中家住宅があるので、暫時寄ってみることにします。
 田中家は嫡男が代々徳兵衛を名乗り、江戸時代末期の初代徳兵衛は農業を営みましたが、二代目徳兵衛の時代、明治四年(1871年)からは麦味噌醸造と材木商を営んで繁栄しました。現存する住宅は四代目(1875年-1947年)が建てたものです。
 建物は洋館と和館から成り立っていますが、洋館は煉瓦造三階建て、174・57平方メートル。



 二階座敷
から見下ろす庭園です。



 三階の窓から見下ろした旧岩槻街道(国道122号線)。手前が東京方面です。



 今日最後に訪れた林寺(真言宗智山派)は旧田中家住宅から歩いてほんの数分でした。本尊は阿弥陀如来。

 薬林寺は錫杖寺を中興した宥鎮法印(文明十八年=1486年寂)が開山となり、当初芝川付近に創建、天正年間(1573年-92年)、岩槻城が落城した際、兵火に罹災して、当地へ移転したと伝えられています。薬師堂に祀られている薬師如来は、岡の薬師(いわれは不明)といい、伝教大師の作といわれます。



 岡の薬師が祀られている薬師堂です。
 天文八年(1539年)四月の造立。天正十三年(1585年)、北条氏の家臣・立川山城守、代官・大久保内蔵助らを大檀那として再建したといわれています。平成元年には岡の薬師四百五十年大祭記念として老朽化したお堂が再建されました。

 この中に姥像が納められていますが、寺によれば、この像は三途の川のほとりにいて、亡者の着物を奪い取り、衣領樹(えりょうじゅ)の上にいる懸衣翁(けんえおう)に渡すという奪衣婆(だつえば=脱衣婆とも)だと言い伝えられているそうです。葬頭河婆(そうづかば)、正塚婆(しょうづかのばば)、姥神(うばがみ)、優婆尊(うばそん)ともいわれます。

 帰りは十分ちょっと歩いて、行きに降りた川口元郷駅へ。

この日、歩いたところ


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