ホテルは周りには何もない山の中だった。
広島空港の近くなのか夕方には大きな飛行機が真上を飛んでいく。
夜は真っ暗になり周りがどうなっているのか見当もつかなかった。
朝目覚めると周りは高原のような所で朝靄で白い世界が広がっていた。
スパリゾートのホテルのようで朝から温泉に入り、バイキングスタイルの朝食だった。
こんな辺鄙なところなのに結構家族連れが多く、人気があるようだった。
広島市内や尾道市内のシティ型のビジネスホテルでも良かったが、ネットで探していてどうせクルマで行くので場所はどうでも良いという事で安いホテルを予約したのだった。
第一の目的地は尾道とその先(しまなみ海道か倉敷岡山、山陰へまわり松江や島根)と考えていたが、やはり体力に過信は出来ない事といくら盆明けとはいえ盆休みの最終日はどこも混むのではないかという事があった。
休みの前日という事もあり予約も取れるかわからないので連泊することにした。
ホテルを出て海べりの道を進み、初日に行く予定だった呉を目指した。
朝の瀬戸内の海は光輝いてすがすがしかった。
呉の街に入ると割と大きな町だった。
大和ミュージアムを目指しクルマを進めるが、突然大きなドラム缶のような物体が現れた。
「てつのくじら館(海上自衛隊呉史料館)」に入り海上自衛隊の活動内容を見て回った。
最後のに巨大な潜水艦の中を紹介され、いったいどうやって海の中から引き揚げたのか聞いてみた。
パネルにその様子が紹介されていて、巨大なクレーン車で釣り上げた様子が紹介されていた。
道を隔てた先に「大和ミュージアム」はあった。
さすがに休日(土曜日)という事もあり入口には多くの人で込み合っていた。
館内に入ると大和の大きな模型が展示してある。
その雄姿を見ながら展示を見て回った。
すでに70数年前に作られたものだが、当時としては最新の技術で作られたようで、その後の日本の発展の基礎ともいえるものだったようだ。
そういえば今では当たり前になったパソコン(コンピュータ)やインターネットの技術などは軍事技術から生まれたのものだし、潜望鏡などの光学技術もそこから発展したものだ。
しかし大和の展示の中で乗組員の母宛ての肉質の手紙を読んだときはさすがにやばかった。
敗戦も確実になり、戦勝品として戦勝国に渡るのも苦痛だし、自爆してしまうのも苦痛、結局片道だけの燃料を積み込み沖縄に向かう。
結局、乗組員たちはその運命を知っていたという事実だ。
戦争の悲惨さはこうして受け継がれていかなければならないのだろう。
結局2時間以上もその場で過ごし、係員から聞いた「アレイからすこじま」という所に行った。
現役の戦艦や潜水艦が見れるという。
小高い駐車場にクルマを停め、海べりに出てみると5隻の潜水艦がいた。
下関で見た巨大な運搬船も2隻も駐留していた。
湾内では修理を終えたのか巨大なタンカーらしき船がタグボートに引かれ湾から出ていくところだった。
呉の街は長崎佐世保と似た地形だった。
東側には結構高い山がせり出し、湾を囲むように山で囲まれている。
母方の祖父が海軍の軍人だったので佐世保の事は聞いていたが、きっとこの呉にも来たのだろう。
そんなことを考えていたが時間の方が午後三時を回ってしまった。
まだまだ回り切れなかった(行きたいところはまだまだあった)が帰ることにした。
高速はさすがに早いが単調で景色も見れないので暗くなるまでは山陽道と並走する国道2号線で帰る。
暗くなったら山陽道に乗ることにして、国道沿いの街の雰囲気を楽しんで帰ることにした。
広島空港の近くなのか夕方には大きな飛行機が真上を飛んでいく。
夜は真っ暗になり周りがどうなっているのか見当もつかなかった。
朝目覚めると周りは高原のような所で朝靄で白い世界が広がっていた。
スパリゾートのホテルのようで朝から温泉に入り、バイキングスタイルの朝食だった。
こんな辺鄙なところなのに結構家族連れが多く、人気があるようだった。
広島市内や尾道市内のシティ型のビジネスホテルでも良かったが、ネットで探していてどうせクルマで行くので場所はどうでも良いという事で安いホテルを予約したのだった。
第一の目的地は尾道とその先(しまなみ海道か倉敷岡山、山陰へまわり松江や島根)と考えていたが、やはり体力に過信は出来ない事といくら盆明けとはいえ盆休みの最終日はどこも混むのではないかという事があった。
休みの前日という事もあり予約も取れるかわからないので連泊することにした。
ホテルを出て海べりの道を進み、初日に行く予定だった呉を目指した。
朝の瀬戸内の海は光輝いてすがすがしかった。
呉の街に入ると割と大きな町だった。
大和ミュージアムを目指しクルマを進めるが、突然大きなドラム缶のような物体が現れた。
「てつのくじら館(海上自衛隊呉史料館)」に入り海上自衛隊の活動内容を見て回った。
最後のに巨大な潜水艦の中を紹介され、いったいどうやって海の中から引き揚げたのか聞いてみた。
パネルにその様子が紹介されていて、巨大なクレーン車で釣り上げた様子が紹介されていた。
道を隔てた先に「大和ミュージアム」はあった。
さすがに休日(土曜日)という事もあり入口には多くの人で込み合っていた。
館内に入ると大和の大きな模型が展示してある。
その雄姿を見ながら展示を見て回った。
すでに70数年前に作られたものだが、当時としては最新の技術で作られたようで、その後の日本の発展の基礎ともいえるものだったようだ。
そういえば今では当たり前になったパソコン(コンピュータ)やインターネットの技術などは軍事技術から生まれたのものだし、潜望鏡などの光学技術もそこから発展したものだ。
しかし大和の展示の中で乗組員の母宛ての肉質の手紙を読んだときはさすがにやばかった。
敗戦も確実になり、戦勝品として戦勝国に渡るのも苦痛だし、自爆してしまうのも苦痛、結局片道だけの燃料を積み込み沖縄に向かう。
結局、乗組員たちはその運命を知っていたという事実だ。
戦争の悲惨さはこうして受け継がれていかなければならないのだろう。
結局2時間以上もその場で過ごし、係員から聞いた「アレイからすこじま」という所に行った。
現役の戦艦や潜水艦が見れるという。
小高い駐車場にクルマを停め、海べりに出てみると5隻の潜水艦がいた。
下関で見た巨大な運搬船も2隻も駐留していた。
湾内では修理を終えたのか巨大なタンカーらしき船がタグボートに引かれ湾から出ていくところだった。
呉の街は長崎佐世保と似た地形だった。
東側には結構高い山がせり出し、湾を囲むように山で囲まれている。
母方の祖父が海軍の軍人だったので佐世保の事は聞いていたが、きっとこの呉にも来たのだろう。
そんなことを考えていたが時間の方が午後三時を回ってしまった。
まだまだ回り切れなかった(行きたいところはまだまだあった)が帰ることにした。
高速はさすがに早いが単調で景色も見れないので暗くなるまでは山陽道と並走する国道2号線で帰る。
暗くなったら山陽道に乗ることにして、国道沿いの街の雰囲気を楽しんで帰ることにした。
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