「主義尊重と思考停止」 岩本 海人
本講義「土木史と文明」のレポートでは、生徒が各々の観点で授業の内容をもとに論を作成し提出する。そのため、レポートの内容のバリエーションは非常に幅広く、失恋に関するレポートまであった。そして、その中の一部は先生によって生徒全体に共有され、生徒同士で刺激を与え合える形となっている。
それらレポートの中で特段気になった論がある。そしてその論は、お互いの論から刺激を受け合い高めあえる機会に対してマイナスに働きうると私は考察する。加えて、その論は、流行の様になっていて、ネット上で非常に多く見られる。
その論とは、「自他の間で主義が異なる際、どちらかが正しい、間違っているなどと決めることはできない。」といったものである。この様な主張は、誰もが聞いたことがあり、かつおそらくほとんどの人はそれが「なんとなく」正しいことなのであろうと思っていることだろう。
私は、この論自体にまず誤りがあり、加えて、この論は思考停止を招くと考える。
まず、論の誤りについて論じる。
主義とは、論理であり、感覚や感情ではない。判断の基準であり、物理法則の様なものである。よって、それ自体に、「正しさ」の基準を包含している。(もしくは「正しさ」という概念の否定の包含。)よって、複数の主義があり、それらが対立した「正しさ」を定義したとしても、お互いの「正しさ」がなくなる訳ではない。
加えて、単に「どちらかが正しい、間違っているなどと決めることはできない。」という論は、アウフヘーベンとは全く異なる。これはこの様に明文化すると極めて明らかだが、よく混合されて議論されている様に日々感じる。アウフヘーベンとは、複数の主義を、「高次な」次元で統一することであり、複数の主義が同時に矛盾せずに存在する状態を指している訳ではない。必ず、ステージを変え、高い段階、高次元への移動が行われる。
次に、この論による思考停止について論じる。
以上の様な誤りは原理的な問題であり、実生活にはあまり影響はないであろう。しかし、今回本レポートでわざわざ私がこの論を取り上げたのは、この論が機能的な問題を生むからである。
その問題とは、思考停止であり、批判の否定である。この論に基づいて行われる行為とは、複数の主義の間にある矛盾に目をつむって、自分が間違っているかもしれない、他者が間違っているかもしれないという可能性を無視する行為である。
この論は、聞こえは素晴らしい。平和的で、このような考えの人はその場を綺麗に収めるだろう。そして何より楽だろう。自他の主張の間に矛盾を感じても、そこでアウフヘーベンを試みたりする訳でもなく、議論を行う訳でもなく、ほっとくだけでいいのだから。
けれど、それで良いのだろうか。批判を忘れて本当に良いのだろうか。
こんな主張も、「そう言う人もいる」と言われて、捨てられてしまうのだろう。
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