土木学会Web情報誌のfromDOBOKUの連載、土木スーパースター列伝において、津田永忠の原稿を依頼されました。
編集により原型をとどめないものに変わると思われるので、初稿をブログに遺しておきます。。。
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津田永忠(つだ ながただ)
皆さん,津田永忠(1640~1707)を知っていますか?岡山藩で池田光政公・綱政公に仕えて「豊かな岡山」の基盤をつくった,ぜひぜひ知ってほしい土木の英傑なのですが,かくいう私も2015年9月に土木学会の特別講演で初めて知りました。閑谷学校という有名な建築物や,日本三名園の後楽園も出てきますので,お楽しみに~。
まず,津田永忠に関する本を紹介させてください。
土木学会の第98代会長を務められた岡山大学名誉教授の阪田憲次先生が,読書好きな私に以下の2冊の本を贈呈してくださいました。阪田先生ご自身の蔵書です。
(1) 「閑谷の日日」(松本幸子 著,新人物往来社)
(2) 「岡山藩郡代 津田永忠」(柴田 一 著,山陽新聞社)
(1)は小説で,妻である市の目から見た忠像が描かれています。若いころに小説家を目指し,卓越した文章を書かれる阪田先生が私にお薦めしてくれました。刃物のように鋭利な頭脳と卓越した行動力を持つ永忠の人間味にも触れられており,とても味わい深い短編小説でした。(2)は上下巻の本格的な津田永忠伝です。
2018年の年明けに,阪田先生と私の仲間たちとで閑谷学校を訪れました。きりっと身が引き締まる寒さの中,荘厳なたたずまいの閑谷学校を散策し,1年をしっかり生きようという気持ちがみなぎったのを覚えています。
閑谷学校の講堂の前で。阪田憲次先生(左端)と筆者(右端)(2018年1月6日)
閑谷学校の講堂。塵一つない床が印象的。
阪田先生は2021年11月2日に,ご闘病の末,お亡くなりになりました。東日本大震災の発災時の土木学会会長であり,学会の調査団の一員として私も1週間,東北を同行させていただき,晩年とてもかわいがっていただきました。ご冥福をお祈りいたします。このタイミングで津田永忠についての執筆をさせていただくのもご縁と思い,図書紹介もかねて紹介させていただきました。
閑谷学校は,永忠が尊敬した池田光政公の教育への強い思いを祀り続けるため,技術の粋を尽くして建造された学問所でした。講堂は防水・排水に徹底的な配慮がなされました。屋根には備前焼の本瓦が乗せられ,一般的な瓦の葺き方とは異なり,壁土を使わないので,年月とともに風化する壁土が落ちることはなく,床の輝きが保たれるそうです。
学校を取り囲むかまぼこ形の石塀は,隙間なくきっちりと石が組み合わされていて,滑らかな表面をしていて,雑草も全く生えていません。石の目地から雑草が生えないよう中に詰められた割栗石は徹底的に水洗いして種などを落として使ったそうです。
閑谷学校が300年以上も美しさを保ち続ける理由は,永忠の徹底的な配慮と技術へのこだわりにあったのですね。
閑谷学校のかまぼこ形の石塀
さて,私が初めて津田永忠のことを知ったのは,2015年9月の土木学会全国大会(岡山大学)での特別講演で,両備ホールディングスの小嶋光信会長が永忠について話をされたからでした。小嶋さんは岡山藩郡代津田永忠顕彰会会長を務めておられ,永忠の考え方は,ご自身の経営方針にも大きな影響を与えているとのことでした。
小嶋さんの講演に感銘を受けた私は,2016年9月に10名程度の学生を引率して岡山を訪れ,両備ホールディングスにて小嶋さんから3時間のレクチャーと薫陶を受け,翌日に永忠の遺した数々の土木・建築の遺産を巡りました。
小嶋会長による熱血レクチャー(2016年9月12日)
数多くの永忠の業績の中で,倉安川・百間川かんがい排水施設群は,2019年に世界かんがい施設遺産に登録されています。倉安川は,降雨が少ない岡山平野にあって,東の吉井川,西の旭川を結ぶ「水を活かす」用水路(1679年完成)。百間川は,河口に遊水地と石樋(排水樋門)を組み合わせた「水を制する」用水路(1687年概成)。この2つの水路により,倉田新田・沖新田という2,200haを超える大規模干拓が実現し,大変な財政難に苦しんでいた藩は大きく潤うことになりました。
沖新田は,モンスーン地帯では世界最大の干拓事業だそうです。
学生たちと訪れた百間川河口水門
百間川の上流にあったパネル
永忠の偉業の一つに岡山の後楽園があります。日本三名園の一つです。
後楽園のつくられた場所は,城から近いという長所はあるものの,旭川の中州で苔の生えにくい砂地であって,苔の美しさを基調とする日本式庭園をつくるには決して適切な場所ではありませんでした。中洲なので,庭園に引く用水を得ることも容易ではありませんでした。永忠はそのような場所を敢えて選定し,城の防備と旭川の洪水対策を兼ねたと言われています。
後楽園は,藩主綱政の発意と趣好により,長瀬問誰が山水と石組の配置を考え,永忠がその普請と財源を担当して完成したものとされています。
永忠は,土木も建築もできる当時トップレベルのエンジニアだったのですね。
奴久谷の津田永忠の墓にもお参りしました
2016年9月の学生たちとの津田永忠を巡る旅の最後に訪れた後楽園
熊沢蕃山の陽明学の影響を受けた永忠は,「知行合一」の考えに基づき,民の苦しみを救うために実践を重ねました。大飢饉が発生し,全国的に百姓一揆が激発した時期にさえ,岡山藩では平穏無事を喜びあうことができました。
永忠の次のような言葉が残されています。「新田開発とは,五穀のできない所を人間の力で五穀が育つところに変え,日本の食物をふやす営みである。沖新田の普請をおこせばその普請によって民百姓の働き口をつくることができ,また新田の入植者には渡世のよりどころを与えることができる。天道と人道にかなったもので天下国家・社会への奉公の営みである。自分の売名のためならば,倉田新田・幸島新田の開発で充分である。必ず成功するという保障もない沖新田に挑戦し,名実ともに失う恐れのある事業をあえて始めるはずはないではないか。」
光政公を敬愛し,信念を貫いたために,ぶつかったり誤解を受けることも少なくなかった永忠ですが,その哲学や実践力は,現代の土木技術者が見習うべきお手本とも言えますね。