細田暁の日々の思い

土木工学の研究者・大学教員のブログです。

土木スーパースター列伝 津田 永忠(つだ ながただ)

2021-12-30 10:36:20 | 人生論

土木学会Web情報誌のfromDOBOKUの連載、土木スーパースター列伝において、津田永忠の原稿を依頼されました。

編集により原型をとどめないものに変わると思われるので、初稿をブログに遺しておきます。。。

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津田永忠(つだ ながただ)

皆さん,津田永忠(1640~1707)を知っていますか?岡山藩で池田光政公・綱政公に仕えて「豊かな岡山」の基盤をつくった,ぜひぜひ知ってほしい土木の英傑なのですが,かくいう私も2015年9月に土木学会の特別講演で初めて知りました。閑谷学校という有名な建築物や,日本三名園の後楽園も出てきますので,お楽しみに~。

まず,津田永忠に関する本を紹介させてください。

土木学会の第98代会長を務められた岡山大学名誉教授の阪田憲次先生が,読書好きな私に以下の2冊の本を贈呈してくださいました。阪田先生ご自身の蔵書です。

(1) 「閑谷の日日」(松本幸子 著,新人物往来社)

(2) 「岡山藩郡代 津田永忠」(柴田 一 著,山陽新聞社)

(1)は小説で,妻である市の目から見た忠像が描かれています。若いころに小説家を目指し,卓越した文章を書かれる阪田先生が私にお薦めしてくれました。刃物のように鋭利な頭脳と卓越した行動力を持つ永忠の人間味にも触れられており,とても味わい深い短編小説でした。(2)は上下巻の本格的な津田永忠伝です。

2018年の年明けに,阪田先生と私の仲間たちとで閑谷学校を訪れました。きりっと身が引き締まる寒さの中,荘厳なたたずまいの閑谷学校を散策し,1年をしっかり生きようという気持ちがみなぎったのを覚えています。


閑谷学校の講堂の前で。阪田憲次先生(左端)と筆者(右端)(2018年1月6日)


閑谷学校の講堂。塵一つない床が印象的。

阪田先生は2021年11月2日に,ご闘病の末,お亡くなりになりました。東日本大震災の発災時の土木学会会長であり,学会の調査団の一員として私も1週間,東北を同行させていただき,晩年とてもかわいがっていただきました。ご冥福をお祈りいたします。このタイミングで津田永忠についての執筆をさせていただくのもご縁と思い,図書紹介もかねて紹介させていただきました。

閑谷学校は,永忠が尊敬した池田光政公の教育への強い思いを祀り続けるため,技術の粋を尽くして建造された学問所でした。講堂は防水・排水に徹底的な配慮がなされました。屋根には備前焼の本瓦が乗せられ,一般的な瓦の葺き方とは異なり,壁土を使わないので,年月とともに風化する壁土が落ちることはなく,床の輝きが保たれるそうです。

学校を取り囲むかまぼこ形の石塀は,隙間なくきっちりと石が組み合わされていて,滑らかな表面をしていて,雑草も全く生えていません。石の目地から雑草が生えないよう中に詰められた割栗石は徹底的に水洗いして種などを落として使ったそうです。

閑谷学校が300年以上も美しさを保ち続ける理由は,永忠の徹底的な配慮と技術へのこだわりにあったのですね。


閑谷学校のかまぼこ形の石塀

さて,私が初めて津田永忠のことを知ったのは,2015年9月の土木学会全国大会(岡山大学)での特別講演で,両備ホールディングスの小嶋光信会長が永忠について話をされたからでした。小嶋さんは岡山藩郡代津田永忠顕彰会会長を務めておられ,永忠の考え方は,ご自身の経営方針にも大きな影響を与えているとのことでした。

小嶋さんの講演に感銘を受けた私は,2016年9月に10名程度の学生を引率して岡山を訪れ,両備ホールディングスにて小嶋さんから3時間のレクチャーと薫陶を受け,翌日に永忠の遺した数々の土木・建築の遺産を巡りました。


小嶋会長による熱血レクチャー(2016年9月12日)

数多くの永忠の業績の中で,倉安川・百間川かんがい排水施設群は,2019年に世界かんがい施設遺産に登録されています。倉安川は,降雨が少ない岡山平野にあって,東の吉井川,西の旭川を結ぶ「水を活かす」用水路(1679年完成)。百間川は,河口に遊水地と石樋(排水樋門)を組み合わせた「水を制する」用水路(1687年概成)。この2つの水路により,倉田新田・沖新田という2,200haを超える大規模干拓が実現し,大変な財政難に苦しんでいた藩は大きく潤うことになりました。

沖新田は,モンスーン地帯では世界最大の干拓事業だそうです。


学生たちと訪れた百間川河口水門


百間川の上流にあったパネル


永忠の偉業の一つに岡山の後楽園があります。日本三名園の一つです。

後楽園のつくられた場所は,城から近いという長所はあるものの,旭川の中州で苔の生えにくい砂地であって,苔の美しさを基調とする日本式庭園をつくるには決して適切な場所ではありませんでした。中洲なので,庭園に引く用水を得ることも容易ではありませんでした。永忠はそのような場所を敢えて選定し,城の防備と旭川の洪水対策を兼ねたと言われています。

後楽園は,藩主綱政の発意と趣好により,長瀬問誰が山水と石組の配置を考え,永忠がその普請と財源を担当して完成したものとされています。

永忠は,土木も建築もできる当時トップレベルのエンジニアだったのですね。


奴久谷の津田永忠の墓にもお参りしました


2016年9月の学生たちとの津田永忠を巡る旅の最後に訪れた後楽園

熊沢蕃山の陽明学の影響を受けた永忠は,「知行合一」の考えに基づき,民の苦しみを救うために実践を重ねました。大飢饉が発生し,全国的に百姓一揆が激発した時期にさえ,岡山藩では平穏無事を喜びあうことができました。

永忠の次のような言葉が残されています。「新田開発とは,五穀のできない所を人間の力で五穀が育つところに変え,日本の食物をふやす営みである。沖新田の普請をおこせばその普請によって民百姓の働き口をつくることができ,また新田の入植者には渡世のよりどころを与えることができる。天道と人道にかなったもので天下国家・社会への奉公の営みである。自分の売名のためならば,倉田新田・幸島新田の開発で充分である。必ず成功するという保障もない沖新田に挑戦し,名実ともに失う恐れのある事業をあえて始めるはずはないではないか。」

光政公を敬愛し,信念を貫いたために,ぶつかったり誤解を受けることも少なくなかった永忠ですが,その哲学や実践力は,現代の土木技術者が見習うべきお手本とも言えますね。


学生による論文(93)「ストック効果の認識 〜ローマにおける水道設備から考える〜」 秋田 修平 (2021年度の「土木史と文明」の講義より)

2021-12-24 08:50:26 | 教育のこと

「ストック効果の認識 〜ローマにおける水道設備から考える〜」 秋田 修平

 今回の講義を通して水道設備の歴史について学ぶことにより、帝政ローマ時代に一度は高度に発達した上・下水道が、中世にはその設備のほとんどが廃れてしまったという事実を知り、私自身とても驚いた。そこで、今回は帝政ローマ時代と中世における上・下水道設備を取り上げることで、現代を生きる我々が学ぶべき事柄を考察していきたい。

 我々が学ぶべき事柄は、主に3点あるように思われる。

 まず1点目であるが、インフラ整備の影響の大きさとその重要性である。水道設備の整備が不十分であった中世から19世紀にかけては様々な疫病が流行し、人々の命を脅かしていた。特に、コレラはコレラ菌に汚染された水が媒介物となり流行が広まった疫病であり、水道の整備が不十分であったために多くの人に被害が及んでしまった歴史をもつ。当時は、今よりも公衆衛生に対する意識が低く、人々が水道設備の重要性を十分に理解していなかったように思われ、実際にコレラ菌が確認された1884年以降も無処理の河川水を給水することが続けられるなど、人々の水道設備の重要性はあまり認識されていなかったように思われる。普段使っている「水」がコレラ流行の原因であると正しく理解されておらず、結果として多くの人々の健康が脅かされてしまっていたのである。このような被害を繰り返さないためにも、我々はまず第一に水道整備の重要性やその影響力をきちんと理解する必要があるのではなかろうか。

 次に2点目であるが、土木建造物の長期的な(ストック)効果についてである。帝政ローマ時代にローマ中に張り巡らされた水道網であるが、その水道網の1つであるトライアーナ水道は、現在でもローマ時代に建設されたままの構造をほとんど留める形で水道としての役割を担っている。この水道は、使用されていなかった時期を含め1900年もの間その役割を全うしているというから驚きである。このように、土木建造物というものは一度素晴らしい設備を建設すると、その設備を非常に長い期間利用できる(大きなストック効果がある)という特徴がある。もちろん、この「一度素晴らしい設備を建設する」際には高価な材料などに多額の費用がかかるなど、ある程度の懸念すべき点もある。しかしながら、そのストック効果を考えたときには、多くの場合で費用以上の効果を期待することができるように思われる。実際、ローマ時代の建造物にはローマン・コンクリートと呼ばれるとても強度の大きい材料が使用されており、このコンクリートが、ローマ時代の建造物が壊れることなく現存している要因であるといわれている。我々は、このような質の高い建造物(インフラ設備)に対して、目先の費用対効果を検討するだけでなく、その長期的な効果(ストック効果)についても考慮した上で、必要性を判断するべきではなかろうか。

 3点目は、インフラの維持管理の重要性である。一度、ローマ時代に発達していた水道網であるが、中世にはその必要性が十分に認識されておらず、その素晴らしい設備が有効に利用することができていなかった。つまり、たとえ一度素晴らしい設備を建設したとしても、その必要性を認識し、適切に維持管理を行雨ことができなければ、当然であるが、その恩恵を得ることは出来ない。水道などのインフラ設備は、家ごと、施設ごとに供給しなければならないため、毛細血管のように張り巡らす必要がある。それゆえ、その維持、管理だけでも膨大な労力を要する。しかし、我々の生活を支えているインフラ設備に対してはその労力を惜しまずきちんと維持管理を行っていかなければならないように思われる。特に、我々が生きていく上で必要不可欠な「水」を供給する水道設備に関しては、命に直結する非常に重要な設備であるため、その維持管理には一段と力を入れるべきである。中世の旧ローマ帝国領のようにせっかく整備したインフラ網を捨てるのではなく、そのストック効果を存分に発揮できるように維持管理していくべきであり、我々はその重要性を認識するべきではなかろうか。

 ここまで、帝政ローマ時代と中世における水道設備について考察することで我々が学ぶべきことを列挙してきたわけであるが、これら3点には共通点があるように思われる。

 それは、土木の「ストック効果」をもっと認識するべきだということである。恐らく、土木の勉強に励んでいらっしゃる方々にとっては、何を今さら、、と思うことではなかろうか。しかし、私のように土木を専門的に学んでいる訳ではない人間にとってはストック効果という言葉はあまり聞きなれない言葉であり、その意味を理解している人はそう多くはないと思われる。そのために、土木のストック効果、つまり長期的な効果を棚に上げて目先の費用対効果を重視した議論が進んでしまっているように思われる。国民に土木の正しい価値(効果)を示すことこそ、日本をより強靭で災害に強い国にするための第一歩ではなかろうか。


学生による論文(92)「公共の福祉に基づくインフラの整備」 渡邊 瑛大 (2021年度の「土木史と文明」の講義より)

2021-12-24 08:49:01 | 教育のこと

「公共の福祉に基づくインフラの整備」 渡邊 瑛大

 古より、人々は各地で水を奪い合い、自分たちの利益が多くなるように水路を引いてきた。我田引水である。英語にも、Every miller draws water to his own mill. という表現がある。「粉屋はみな自分の粉ひき場へと水を引く」という意味である。このように、「我田引水」という表現は世界全体に共通する概念である。しかし、時代が変わっても人の考えは変わらない。現代の道路建設においても、同じような事例が見られる。

 1つ目は、中央道である。高速道路網の初期案では、東京から名古屋までのルートは、山梨を通過し、南アルプスを貫いて長野・岐阜へ抜ける中央高速のみで計画されており、国土の中央を貫く基幹路線を建設して、海沿いへは枝線を建設して接続させる予定であった。しかし、このルートには南アルプスや中央アルプスが立ちはだかっているため、もちろんトンネルを掘ることになっていたのだが、最新技術を用いたリニア中央新幹線の建設でもかなり手を焼いていることから、当時の技術ではかなり苦しい工事になっていたであろう。このように、山間部の建設費が莫大になると予測されたことや、古くから栄えてきた東海道沿いの方が経済的なメリットが大きいといった理由から、東名高速の建設は次々に進んだ一方で、中央高速は、東京から富士吉田までの区間のみが建設された。

 そこで、中央道の延伸と早期建設を促進するために、関係自治体などによって「中央自動車道建設推進委員会」が立ち上げられた。しかしながら、1963年に開催された第6回総会で、当時委員長だった長野県出身の国会議員である青木一男氏が「南アルプスを越えるのをやめて北回りにしよう」と発言し、北回りになることで新たな経由地となる沿線の自治体は大いに賛同した。そして、当時の身延町やその周辺の自治体による反対も虚しく、甲府・岡谷経由のルートで建設されることになった。こうして中央道は現代のような形になり、東京から長野方面へ、名古屋から長野方面へ向かう際には便利であるが、当初の目的からは大きく逸脱したルートとなってしまった。

 2つ目は、徳島道である。高速道路網の初期案では、本四連絡橋の計画がなかったため、関西地方との往来が盛んであった徳島に交通網の重点が置かれ、徳島道もまた中央道と同様に、四国の基幹路線となるはずであり、高松方面は支線を分岐させる形で整備する予定だった。しかし、当時計画されていなかった松山道が1985年に、高松道が1987年に開通し、徳島道は1994年になってから整備が始まった。これには、全国の高速道路網の拡充や本四連絡橋の建設の決定など様々な外的要因や自治体の反発などの内的要因によって建設が遅れたことが考えられる。

 もともと徳島道は鳴門JCTで神戸淡路鳴門道と分岐し、直線的に路線を敷いて愛媛を目指す計画であった。この吉野川沿いを進むルートは高速道路としては理想的であったのだが、沿線の自治体は「町の中心部から遠い」などの理由から猛反発した。このような市の中心部から遠いところにICが設置されるという事例は、初期に計画された国土の中央を貫く基幹路線では、特段珍しい話でもないのだが、この徳島道では様々な意見によってルートが修正されることになった。さらに、当初の計画では、徳島道は徳島市をわずかに掠めるルートになっていたが、当時の徳島市が猛反発し、中心部に近い場所にICを作るため、ルートが変更になった。その結果、徳島市の中心市街地から吉野川を挟んだ反対側に、国道11号と直結するICが作られることになり、高速道路へのアクセスは便利になった。しかし、この変更の影響によって、2014年以前まで川之江東JCTから徳島ICの区間は盲腸線となり、すぐそこに高松道や神戸淡路鳴門道が通っているのにも関わらず接続がなされず、不便な状態が続いた。そして、徳島ICから鳴門JCTの間が開通したのは2015年になってからであった。

 このような、自治体の反対によって建設が遅れた例を見ると、一般の人々がいかに利己的であるかがわかるだろう。結局は社会全体の利益を考えるよりも自分たちの利益の方が重要であると考えてしまうのである。確かに、インフラを作る際にはある程度の利便性は確保しなければならない。しかし、高速道路もまた公共物である。周辺地域の都合だけでなく、利用者全体の視点からルートを考える必要もあるだろう。公共の福祉を考えてこそ、公共のインフラはより使いやすいものになるし、本当の役割を発揮するのだ。

 


学生による論文(91)「文明の発達はシステムの複雑化をうみ文明の崩壊を招く」 村岡 泰輝 (2021年度の「土木史と文明」の講義より)

2021-12-24 08:41:52 | 教育のこと

「文明の発達はシステムの複雑化をうみ文明の崩壊を招く」  村岡 泰輝

 今の日本の都会は便利である。蛇口をひねれば水が出てくる。スイッチを押せば明かりが灯る。まるで水や電気やガスが魔法で湧き出しているかのようだ。また手のひらサイズの板でどこにいる人とでも会話をしたり世界中の情報を調べたりすることができる。そしてそこでワンクリックをすれば商品がすぐに届く。まさに魔法のような板である。

 もはや私たちは、学ばなければ、その水や電気やガスがどこから来ているのか知ることもないしどんな技術でスマホが動いているのかも分からない。どうやって商品が運ばれてきたかも分からないし生産者の顔を知ることもない。そしてなによりインフラがこれらの暮らしや物流を支えてくれていることを知ることもない。今の生活は先人たちが作ってきたインフラや発明してきた科学技術、考えられてきた社会システムによって支えられている。そしてそれを維持管理している人に支えられて都市は成り立っている。しかし大都会にいると暮らしを支えてくれているシステムが見えにくい。

 さて、『充分に発達した科学技術は、魔法と見分けが付かない』というSF作家の定義した法則がある。ここで話す「魔法」が何の代償もなく使える理想的な魔法だとすると、もちろん私たちが今使っている科学技術は魔法ではない。だから魔法のように見える科学技術やそれを支えているシステムも管理し維持する必要があるのだ。ところが都会で生きる私たちはときどき理想的な「魔法」と見分けが付かなくなる。つまり何の代償もなく自由に無限に使えるものだと思ってしまう。そして管理し維持する必要があることの重要性を忘れてしまう。都会ではインフラが効率的に維持管理されている結果、暮らしを支えてくれているシステムを身近に感じられないからだ。

 島の中で島の暮らしを支えるインフラが完結していれば非常にわかりやすく身近に感じることができる。またローマのように上水道が町中に堂々とそびえたっていたら暮らしを支える上下水道に興味を持つだろう。いまの都会の町中で見える上下水道設備はマンホールくらいである。電柱も地下化されてしまえばこの電気がどこからきているのか興味を持つ機会も減るだろう。

 では暮らしを支えるインフラやシステムが感じられないならどうしたらいいのか。勉強し学ぶしかない。魔法と見分けをつけるには「十分に発達した科学技術」を正しく学ぶ必要がある。文明が発達すればするほど技術や社会システムは複雑化し中身が直感的に見えにくい。だから文明が発達するペースで人類も学び続けなければ環境負荷といった代償や維持管理の重要性を忘れてしまうだろう。

 人類が文明の発達するペースについていけず、複雑化したシステムに大衆が無知になればなるほど大衆の流れに流され間違った選択をしてしまうかもしれない。文明の発達がシステムの複雑化をうみ文明の崩壊を招くかもしれない。複雑化していく技術や社会システムを理解することで文明を発達させ維持し続ける努力が必要だ。

 どの文明もいつかは滅びる。滅びた文明を伝えるものはその当時のインフラや都市のかたちといった景観として残されるのみである。残されたインフラの形からできるだけ多くの物を学ばなければならない。例えばピラミッド制作の魔法の技術を解明できていない。過去のインフラが訴えている複雑化したシステムの一部を聞き取り今の文明に生かしていかなければならないと思った。


学生による論文(90)『「下水道がない世界を君は想像できるか」』宮内 爽太 (2021年度の「土木史と文明」の講義より)

2021-12-24 08:40:34 | 教育のこと

『「下水道がない世界を君は想像できるか」』宮内 爽太

 「下水道がない世界を君は想像できるか」。私は通りがかりの素人にそう問いかけてみたい。本日の講義で、「この世から下水道が消えたら、私たちは死ぬ。」とあったが、これは本当に紛れもない事実である。そこで今回は、その事実を裏付けるため、一般に下水道が担う役割について大まかに述べつつ、もしこの世から下水道が消えてしまったらどうなるのかを具体的に考え、そしてその先にある死の選択肢についてまで論述する。

 まず、下水道には大きく分けて4つの役割が存在する。街を清潔にする、街を浸水から守る、身近な環境を守る、エネルギー・資源を創るという4つである。日本の歴史的には、雨水を速やかに排除することが古代においてメインとなる役割であった。それからは、その雨水の排除によって街の浸水を防いだり、さらには水洗トイレが使えるようになったり、衛生的なまちづくりが可能になったりと、今や下水道は私たちの毎日の生活には必要不可欠なインフラである。

 さて、ここまで下水道の役割について簡単に確認してきたが、ここで、もし下水道がこの世から消えてしまったら、果たして我々人間はどうなってしまうのかについて考えてみたい。単純に、先に述べた下水道の4つの役割が果たされなくなってしまうと考えるだけでも、下水道がない世界がいかに苦痛で、不潔で、危険であるのが分かる。

 例えば、雨が降っても水を排除できなくなり、水たまりにはハエや蚊などの虫が大量に発生する。そうすると、街ではコレラなどの疫病が流行してしまう。また、大雨が降り、この水たまりがさらに発展すると、街に浸水被害をもたらすことになる。こうなってしまうと、もはや死への一方通行である。また、街に溢れた汚水を川や海に流してしまうことになると、川や海も汚れてしまう。それによって、魚などの生物がそこに棲めなくなるだけでなく、伝染病の流行にも繋がってしまう。今現在当たり前にできていることは、下水道が消えただけで簡単に何もできなくなってしまうのだ。

 このように、下水道がなくなった世界がいかに残酷であるかが判明したところで、さらに問いかけてみたい。「水が飲めなくなって死ぬのと、トイレが使えなくなって死ぬのと、どちらが苦しいか」。

 私の答えは後者である。しかし、当然いずれの場合も私は経験したことがないので、今はあくまで感覚的な答えではあるが、この2択の状況をより具体的にイメージすることにより、論を支持したい。

 まず仮に前者を選ぶとする。水が飲めなくなってしまった世界である。2、3日間、一滴も水を飲まないと、人間は生命を維持することができなくなるということは、よく聞く話である。しかし、水が飲めないというだけで、トイレが普段通り使える状況にあるというのは、まだ日常生活としての現実的な話に帰着可能である。また、この世には実際に断食という行為もあり、私も1日だけ実行したことがあったが、特に苦しいとは思わなかった。

 では、後者を選ぶとしよう。まず率直に、トイレが使えないということ自体、この下水道が普及している日常にとってみれば、非現実的な話である。人間は外部から取り込んだ水や食料を体内に補給し、老廃物を体外に排出しなければならない。これは人間の体の機能であり、生理現象である。このトイレが使えないということが現実になれば、まずトイレでは排泄物を流すことができず、しばらくして汚れが溢れ出す。そしてトイレが使えないとなれば、人々はトイレ以外のところにも排泄し始める。そうなると、しまいには街中が排泄物で溢れてしまうだろう。そこへ畳み掛けるように大雨でも降れば、雨水は排除されない上、汚水も排除できないという結末に至る。このような不潔で汚れた世界を望む人など誰もいない。私なら、水を飲めなくなって死ぬ方がましである。

 もちろん、ここまではあくまで仮の話であり、水がなくなって死んでしまうことも、下水道が消えて死んでしまうことも、確実に避けるべきこと・世界である。こういった事態に陥らないよう、ライフラインの整備が不可欠であり、この両方の世界に対して貢献できるのが土木である。

 最後に、下水道をはじめとする一部のインフラは、私たちが普段生活していても目には見えないところにある。そして、どんなに清潔な街も人も、下水道がなくなった途端、人も街も不潔になってしまう。世界にはまだ下水道が整備されていない地域もあり、我々日本人は、下水道が存在することを当たり前に考えてはならない。下水道は「汚い」というイメージが先走ってしまいがちであるが、この世界に「綺麗」をもたらしているのも下水道であるということは、中々気づかれにくい事実である。陰で支えるインフラ・下水道が、今この瞬間も世界を綺麗にしてくれているということを決して忘れずに生きていきたい。

参考文献
・公益社団法人 日本下水道協会HP 「下水道の役割」
https://www.jswa.jp/sewage/role/
(最終閲覧日:2021年12月17日)


学生による論文(89)水の必要性を知るための「親水」 松尾 祐輝 (2021年度の「土木史と文明」の講義より)

2021-12-24 08:39:15 | 教育のこと

水の必要性を知るための「親水」 松尾 祐輝

 私は、先生が今回の講義で最初におっしゃっていた「水が無くなれば、その瞬間に死ぬ」という言葉に強い印象を抱いた。それと同時に、第1回の講義の最初に話された「土木が無くなれば、即死」という言葉をすぐに思い出した。私は横浜国立大学で土木を学んでいるため、土木が日本の国づくりに必要不可欠であることはあらかじめ認知していたが、その当事者意識がない人にとっては、この言葉は当事者意識を持たせる上で非常に有効であると考える。さて、「水」といえば、土木にあまり精通していない人でも比較的その実体をイメージしやすい物質であると思われるが、多くの一般人にとっては「気づいたらそこにあるもの」という程度のイメージにとどまるのではないだろうか。気づいた時にそこに水があれば良いが、もしなければその後の行く末は1文目の通りである。多くの人に対して「水が無くなれば、その瞬間に死ぬ」という言葉を直接聞かせることは難しいが、現在の水に対するイメージの幅を広げ、その言葉に近い当事者意識を持たせることは十分可能である。レポートでは、水へのイメージの幅を広げるための方法について、「親水」を1つの切り口にして述べる。

 結論として、見えない水をなるべく見えるようにし、さらに効果的な見方を学ぶことが重要である。この先では、3つの視点を通して結論を具体化する。

 まず1つ目として、直接的な土木技術による水のマネジメントを知るということが挙げられる。熊本県の通潤橋は、近くの白糸台地(高地)に水を届ける役割を果たしているが、外見だけでは水の流れを把握することは難しい。ただ実際は、円形分水を通して川から水を取り込み、通潤橋の中の水路で逆サイフォンの原理を利用して、通潤橋の高さよりも数m高い位置に水を運んで白糸台地に流している。この事実を知ることで、普通は重力に逆らえない水をもとよりも高いところに運ぶ技術があり、その技術を通して高地の水不足問題を解決できるという知見を得ることができる。また、江戸時代には、江戸の城下町は沖積平野に作られた。沖積平野では井戸水(地下水)に塩分が含まれ、そのままでは利活用が難しい。さらに塩分の含まれた地下水は地下構造物を劣化させる要因にもなる。そのため、離れた場所にある豊かな水源から水を引っ張ってくる「上水道」を整備したり、塩害に備えて定期的に地下水路の劣化がないかを点検したりしている。上水道は目に見える位置にあるためイメージはしやすいが、その役割を知ることは難しいように感じる。地下水路の点検はなかなか目にすることができないため、イメージは難しいだろう。しかし、これらの事実を知ることができれば、水の利活用に対する見方は少し変わるのではないかと考えられる。これらの知見は、多少たりとも水に親しむきっかけとなり、土木を切り口とした「親水」の役割を果たすのではないだろうか。

 2つ目に挙げる視点は、物理的な「親水」空間である。これは講義で出てきた「大都会にいるとインフラが見えなくなる」という言葉に関連する。そして、今回挙げる視点の中では見えない水を物理的に見えるようにする唯一のものである。現在「溜池山王」の地名で残る地域にはかつて「溜池」があり、人々が通る道のすぐ隣に見える形で広がっていた。これは一種の「親水」空間であり、人々が道を通るたびに水を目にすることで水をより身近なものとしてイメージすることができる。溜池の土木的な役割まで知ることができると上々であろう。一方、大都会が形成された今の東京を考えてみると、目に見える水は全くないわけではないが、たとえ目に見える水があったとしてもその他の情報の量が多すぎるために水に思いを馳せることはなかなか難しい。また、都市化が進めば当然目に見える水は減ってしまう。そのため、まちづくりを行う時に水の存在をないがしろにするのではなく、少し自然の流れを感じられる「親水」空間を設けることで、水の必要性も感じられるようになると考えられる。

 3つ目の視点は、効果的な見方をするための「教養」である。講義では「教養があるのとないのでは同じものの見え方が変わり、教養がある人には普通は見えないものが見えるようになる」という話があったが、ここでの教養は、水へのイメージの幅を広げるとともに、私たちが生き抜くための水の必要性を会得することができるものであると考えられる。2つ目の視点では水を物理的に見えるようにするための工夫を述べたが、見えるようにしただけでは効果的な見方をさせることは難しい。そのため、1つ目で述べた土木技術と水の視点を含む教養を得ることで、効果的な見方へと導いていく必要がある。教養を身につけるためには「教育」が必要となるが、教育を効果的にするためにはまずは各々が育つ環境についてよく考える必要がある。社会人になるまでの成長環境において最も重要な要素となるのは「両親の考え」であり、両親の考えが良くないものであれば子供の考えは良くなりづらい。そして、自分以外の人はさまざまな環境下で育ってきているということを認知し、自分と違う考えがあっても初めから否定しないという心構えのもとで教育を行うことが、社会全体の教養を底上げするうえで有効なことであると考えられる。このように環境について考慮したうえで教育のあり方を考えることが、本物の教養、そして水と本当に親しむ(付き合う)心を得るための第一歩ではないだろうか。

 冒頭の「水が無くなれば、その瞬間に死ぬ」という言葉から、われわれの水との付き合い方について考察してきた。水を効果的に見られるようにすることが一つの結論であるが、これは水に限らない話である。まさに「土木が無くなれば、即死」を意識するためには、土木を効果的に見られるようにすることが必要であると考えられ、そのための勉強や広報は欠かせない。

 


学生による論文(88)「多くを知ること」服部 さやか (2021年度の「土木史と文明」の講義より)

2021-12-24 08:38:05 | 教育のこと

「多くを知ること」服部 さやか 

 前々回、前回と私の体験から基づいてカナダと日本の違いを述べ、そこからどのように改善していくべきなのかを私なりに述べた。今回のレポートでは今までの内容に関連させて、バンクーバーの街並みについてその評価を述べていきたいと思う。まずは、バンクーバーの街並みをいくつかの要項に分けて解析していく。

 1つ目に、バンクーバーの交通事情を解析していく。私が主にバンクーバーで感じたことは、基本的に都心以外車での移動が多いということだ。カナダではハイウェイが無料で、私のお世話になっていたサレー市内では特に移動の手段が基本的にバスか車であった。それに対して、都心では歩きが移動手段の基本である。この点においては、日本とかなり似ている点があると私は考えた。では、交通事情において日本とバンクーバーの間にどんな違いがあるのか。それは、都心と田舎を結ぶ路線にあると感じた。基本的に、日本では都心の移動手段は電車である。東京都心の鉄道の路線は隅から隅まで巡らされており、何処へ行くにも電車を利用して移動するのが基本である。それに対してバンクーバーでは、都心と田舎を結ぶ交通としてスカイトレインが挙げられる。スカイトレインとは、空港からダウンタウン、ダウンタウンから田舎へのいくつかの都市を結ぶバンクーバーの公共交通機関である。その形態は鉄道形態と同じものであるが、カナダへ初めて行った高校生の私から見ても、近代的で新しい見た目と機能性を有しており、都市の景観を害しないような鉄道であった。ラピッド・トランジット・新交通システムに位置を置く新しい鉄道形態であり、このような交通システムが、私の感じた交通における日本と違う点である。

 次に、バンクーバーの都市計画(交通を除く)を考える。この点においては、私は日本と違う点が多くあると考える。まず1つ目に、前々回のレポートでも述べたが、自然と都市が共存しているという点。これは都市の中に自然が多く、そして違和感なく存在しているということである。もちろんカナダの市街地には多くの公園が存在しており、その一つ一つは日本にないような規模の大きいものばかりである。だがそのような公園は日本からしたら、土地が大きいことによる利点としか考えられない。だがそれを除いても日本と確実に違うのが、自然が生活に融合している点と自然に対する考え方である。バンクーバーの人々は、都市が進めている Greenest city 2020 といった環境に対する政策に興味を多く持ち、協力をしている。それが功を奏し、バンクーバーでは都市内部で自然が多く混在しているが、その環境に市民が慣れていることもあり、意識的にも本質的には生活に自然が融合していると言える。それに対して日本では、まだ意図的に自然を取り入れる姿勢であると言える。これはいいことではあるのだが、まだバンクーバーのように生活と自然が融合する段階には程遠い。この状況は必ずしも政策を押し進めることにより発生するものではなく、バンクーバーの国民性や政策の進め方、その他の要因によって効果を発してきたものである。この点は日本にできるような形で自然を受け入れていく必要があると私は感じる。

 このように、バンクーバーの都市は日本と違う点は多くあり、そのすべてを日本が真似したとしても当てはまるものでは無いのかもしれない。だが世界の都市の特徴を多く学ぶことで、日本の新しい未来が見えてくると私は思うのだ。私が言いたいのは、必ずしもバンクーバーだけではなく、世界に存在する多くの都市を学び、日本と比べていくことで新しい道が見えて来るということだ。


学生による論文(87)「前向きな惰性」 西浦 友教 (2021年度の「土木史と文明」の講義より)

2021-12-24 08:36:53 | 教育のこと

「前向きな惰性」 西浦 友教 

 「ほとんどの人間は皆だらしない。」今日の講義で細田先生が言い放った言葉である。本当にその通りであると思う。その後に続けておしゃっていた、「環境に身を置くことで人間は成長できる。個人で努力することのできる人はそうそういない。」という言葉にも共感した。おそらく自分の中に思い当たる節があるからだろう。その節をここでは「惰性」と定義し、話を進めることにする。

 ここで、惰性について少し考えてみることにする。試しに今までの人生を軽く振り返ってみると中学校や高校で勉強を頑張っていたのも惰性と言うことができるかもしれない。勉強に対して楽しさを感じたり、内容に興味を持ったりということは全くと言っていいほど無く、ただ、それまでも勉強していたし、一応地元では進学校と位置づけられる高校に入ったため、勉強するのが当たり前だと思っていたところが大きかった。さらに、周囲の友人も割としっかり勉強している環境であったため、コツコツと勉強を続けることに疑問を持ったことはなかった。そうして合格した大学で、興味を持っていた土木分野を学べる都市基盤学科という環境に身を置くことができている。では、そんな都市基盤学科の授業を、私は今どんな心持ちで受けているか。

 もちろん興味を持って聞けているところもあるが、必ずしも前向きと言い切ることができない。時には、単位を取るためと割り切って惰性で講義を受けている日もある。

 こうして考えてみたら、私という人はどのような環境に身を置いても所詮、惰性に流されるような人間なのかもしれない。それは良い方にも悪い方にも転がりうるが、気づいたら周囲に流されることがあるのも事実だ。惰性の意味が「これまでの習慣や勢い(大辞泉)」だということを考えると、あることをやり続ける中で「したい」が薄れてしまったとき、そして、新鮮味が消えかけているときに惰性になってしまうのかもしれないと感じる。

 それならば、もうそれはそれで仕方ない。割り切って、今まさに流されかけている惰性に身を任せ、その中に都度やりがいや楽しみを見いだしたり、今まで見えていなかった自分自身の新たな一面を知る体験をしたりするのも悪くないのではないか。何をしたって惰性からは逃れられないと諦めて、今ある「惰性」を大切にしようと考えた。

 実際、大学に入学してからの約一年半、都市基盤学科で土木について学び続けたことで、思いもよらない楽しさや興味深さを感じる経験も多くあった。土木史と文明のように、他の講義とは一味も二味も違ったアツさを感じる講義にも巡り合えた。このように、ふと考えてみると、惰性で過ごした時間には様々な楽しみや成長に繋がりそうなことが転がっていた。惰性に感謝する。

 ここで少々強引だがまとめに入りたいと思う。今回このような文章を書き自分の中の惰性と向き合い、振り返ったことで、この先、惰性を受け入れつつもその中に種々の楽しみを感じようという心づもりができた。つまり、私の中の「惰性」に前向きなニュアンスが加わった。ほとんどの人間の中に芽生えうる「惰性」という感覚に対して、後ろ向きでネガティブな姿勢を取り続けるのではなく、形はどうであれ前向きにポジティブな姿勢を取ることで、日常の中に転がっている学びと成長を発見していきたいと思う。


学生による論文(86)「隠す」土木と「見せる」土木  中村 優真 (2021年度の「土木史と文明」の講義より)

2021-12-24 08:35:34 | 教育のこと

「隠す」土木と「見せる」土木  中村 優真 

 土木工学を学んで1年8か月、まだまだ土木のことを理解するには程遠いと日々感じている自分だが、人に「土木を学んでいてよかったことは?」と聞かれることがあれば、自分は毎回「まちの見え方が変わったこと」と答えている。

 土木を学ぶことによって、川の上にそびえたつ水門、護岸などの整備で作られた心地よい水辺空間、もしもの際市民を守るマンション下のちょっとした雨水貯留槽の表示などなど、身近な街にありながら、ただのまちの背景のひとつのようにしか見えておらず、あまり意識することのなかった土木構造物のことが、自然と目に入り、気になるようになってきた。まちに実際に見えながらも、普段の市民に意識されるようなレベルには達さず、歩く人々に無視されてしまっている土木構造物が多いと考えると、なんとも悲しく思えてしまう。

 市民に土木の役割を認識させるには、授業で取り上げられたローマ時代の水道橋のように、単なる風景と同化しないレベルに土木を「見せる」ことによって、「この構造物があってこそのこの街だ」という感覚が出てくることが大切だろう。

 しかし、現実では土木を「見せる」どころか、土木を「隠す」ような取り組みも多い。例えば電線類の地中化である。これはもちろんインフラの強靭さの確保や避難路の整備という点で大切ではあるが、生活に必要なインフラを見せなくし、「これがあるから電力を不自由なく使えている」という意識を失わせる危険性もある取り組みにも思える。鉄道や高速道路でも、景観や騒音問題、開かずの踏切などへの対応のため地下化される事例が多いが、このような交通手段を普段使わない人にとっては、交通網の存在を意識から遠ざける可能性もはらむのかもしてない。

 家庭内でも、配管が多くて、そして汚いとされる水回りは、生活に不可欠なものでありながら、できるだけ来客には見せたくないものとして扱われ、景観上は煙たがられているように、土木構造物もまた、ものによっては、目に映ってはいけないものと扱われることもあるのだ。

 一方で、土木構造物を「見せる」シーンも世の中にはある。ドラマの撮影地などを選ぶ際には、橋の存在などはアクセントとして重宝され、場所の象徴のように扱われる場合も多いうえ、鉄道の高架下などの場所もうまくミュージックビデオなどで舞台装置として活用されているような曲も多い。もちろん制作側にそんな意図はないとは思うが、このようなものは、普段風景と同化する土木構造物を、「場所の手がかり」としてとらえ、土木構造物そのものが目的地、目的物となる対象となっており、土木構造物をより皆に意識させるには良い取り組みといえる。土木構造物を「見せ」つつ、見ることそのものが目的になるような取り組みが、これから先土木に対する意識を高めるのに必要なのかもしれない。

 


学生による論文(85)「ローマ人の豊かさの象徴であるテルマエ」 白岩 元彦 (2021年度の「土木史と文明」の講義より)

2021-12-24 08:34:22 | 教育のこと

「ローマ人の豊かさの象徴であるテルマエ」 白岩 元彦

 私はテルマエと呼ばれるローマの公衆浴場は質の高いインフラがそれぞれに効果を発揮しているからこそ、我々が享受できる豊かさを示す象徴的な存在だと感じた。この論文ではなぜ私がそのように考える理由について、政治的な理由とローマ水道、ハイポコーストの観点から論ずる。

 テルマエとは古代ローマ時代に庶民に親しまれてきた公衆浴場である。そのような公衆浴場が建設された背景にはテルマエには格安で質の高い公共サービスを供給し、市民の支持を集めようという政治的な意図があったと推測される。私は講義資料に掲載されていたカラカラ浴場の平面図をみて愕然とした。浴場やサウナはもちろん、運動場や図書館、絵画を展示するスペースもあり、現代の日本の銭湯には比べ物にならないほどに設備が充実していて、まるで都市の公共的文化的な機能を集約した小さな町のようである。これらの設備は格安の料金で利用でき、ローマ市民は芸術に親しんだり、運動をしたり、友人と議論を交わせるような環境を簡単に享受できた。人間が持つ欲を満たせるような施設があることで政治に対する不満を発散させるような狙いがあったのだろう。また、テルマエには地域の有力者が自らの名前を宣伝する効果もあった。裕福なローマ人はローマ市民の名声を得たいときに公衆浴場を1日だけ貸し切りにして一般に無料公開したといわれている。このようにテルマエには政治的な背景からその利用が促進されてきた背景があると考える。

 また、最盛期にはローマ市内だけでもおよそ400もの公衆浴場があったとされ、3世紀末の皇帝ディオクレティアヌスが建設させた帝国最大規模のテルマエは3000人収容できる規模であった。ローマ時代の社交場としての機能を十分に果たしてきたテルマエには大量の水が必要であったことは言うまでもない。そのような大量の水をローマに供給する役割を果たしたのは水道技術である。もし大量に水を供給できる水道技術が存在しなければ、テルマエは存在せず、ローマ市民の衛生状況やローマ帝国の政治の在り方も大きく異なっていただろう。

 その一方で、ローマに継続的に流れ込む豊富な水道水はハイポコーストと呼ばれる古代ローマ式の床下暖房を利用することで、水道水が温水に温められてテルマエに利用されていた。ハイポコーストは、紀元前95年頃にローマの建築家ゼルギウス・オラタの考案によるもので、中空の床下や壁の中に薪または炭火から発生する燃焼ガスを導いて床面や壁面を暖めることで室を暖房する。映画「テルマエ・ロマエ」で奴隷たちが窯に火を噴いていたシーンが印象的だったが、このように温められた空気を使用して温水や暖房として利用されていたようである。このような暖房方法は韓国で多くみられるオンドルにも似ている。紀元前の時代において既に現代でも使用されるような優れた暖房技術を開発し使用している点は驚くばかりである。

 以上のように、テルマエは政治的な要因とローマ水道、ハイポコーストなどの優れたインフラが複合的に作用しあった結果として生まれた高度なシステムであり、その存在はローマ市民やローマ帝国にとって不可欠な存在であったといえる。テルマエはインフラが複合的に作用しあうことによりその効果が何倍にも膨れ上がることを示し、ローマ時代の豊かさを象徴する大変良い事例である。

参考文献
1,家づくり 西方設計 ローマ時代のハイポコースト(床下・壁暖房)
(https://nisi93.exblog.jp/7085814/)2021/12/17参照
2,映画「テルマエ・ロマエ」 監督 武内英樹 2012年上映


学生による論文(84)「偉人の多い岩手の謎」 佐藤 鷹 (2021年度の「土木史と文明」の講義より)

2021-12-24 08:33:06 | 教育のこと

「偉人の多い岩手の謎」 佐藤 鷹

 岩手という場所は不思議なほどに多くの偉人たちを世に送り出してきた。これは私が隣の宮城から出てきた身であるからなおさら、そのような憧憬の念に近いものを抱いてしまうのかもしれないが、それにしても明治期に差し掛かる頃から、新渡戸稲造や後藤新平をはじめ、原敬や斎藤実など4人もの内閣総理大臣、石川啄木や宮沢賢治ら文学人など錚々たる人物が、現在よりも随分と鄙びていたといっていい東北地方の一地域より溢出したのは、どうも偶然とは考えにくいように思う。岩手の持つこの力の源について考察したい。

 奥州藤原氏の三代にわたる栄華は見逃せない。中尊寺金色堂に見られるような平泉の黄金文化はその繁栄の様子を物語っていよう。良質な金山がこれを支えたのは間違いないはずである。しかし畜産もその栄華に貢献していることはあまり知られていない。西牛東馬と以前に述べたが、岩手は有名な馬の産地としても数えられ、中でも今の一関辺りは藤原秀衡が源義経に贈った幻の「太夫黒」の出生地といわれているくらいである。戦国の世にはここで産まれる馬も引く手数多だったはずだ。こうして金山と畜産により支えられた繁栄期に多くの寺が建立される過程で、平泉にやってきた職人や他の関係者によって教育活動が施されたのではなかろうか。この時の教育活動によりいくらか力を溜め込んだと言えなくもない。

 しかし戦乱の世が完全に終わって江戸時代が到来すると、当然馬の需要も尻すぼみになったうえ、数々の飢饉に見舞われるほどに気候も厳しくなり、繁栄は望めなくなった。馬を食肉として売り出せれば、落ち込んだ軍馬需要の分をいくらか回復できたのかもしれないが、肉食を禁忌としていた江戸時代ではそれは叶うはずもない。しかし1821年、岩手の地で興味深い事件が一つ起こった。相馬大作事件である。参勤交代を終えて江戸からの帰路についていた津軽藩主を南部藩士の相馬大作らが襲った。結局暗殺未遂に終わったのであったが、実はこの事件が吉田松陰や藤田東湖を刺激し、松陰は後に相馬大作をたたえる長歌を詠じているのである。彼が尊王攘夷思想の強い水戸学に傾倒していくことはよく知られている。

 そして江戸も終わりに差し掛かる1859年、盛岡藩のとある藩校で筆頭教授を務めることになるのが江幡五郎という人物なのだが、この人物がなんと、吉田松陰と交流を深くしていたのであった。松陰の考えに多く触れていたことだろう。要は岩手の藩校において、当時主流であった思想や考えが熱をもって伝えられていたということになる。そしてこの藩校は後に「作人館」と名を改めるのであるが、この作人館を出ることになるのが、あの新渡戸稲造や原敬なのである。

 奥州藤原氏繁栄の下地があり、江戸期のとある事件が吉田松陰や藤田東湖などの人物に影響を与えた。そして吉田松陰と深い交友のある江幡五郎が盛岡藩の藩校「作人館」の筆頭教授を務め、その藩校で新渡戸稲造や原敬が学ぶ。この奇跡とも言える巡り合わせが岩手の地で起こったのである。後藤新平らも彼らに学んだ部分も多いはずだ。かつては対蝦夷の最大拠点として胆沢城まで置かれ、いわば国の敵であった地が、ここまで多くの偉人を送り出し、我が国の発展に大きく寄与したことは非常に興味深い事実であった。

参考文献
三友写真部「盛岡の風景 吉田松陰と交流のあった「江幡五郎」という人」
https://mitomphoto.exblog.jp/23535939/

先端教育「藩校開設は遅れたものの、多くの明治の偉人や著名な蘭学者を輩出」
https://www.sentankyo.jp/articles/6a13584d-4f8c-4619-8136-5196b7ca46e5
(全て2021年12月18日閲覧)

司馬遼太郎「街道をゆく 陸奥のみち 肥薩のみち ほか」,朝日新聞社,1998 

 


学生による論文(83)「あたりまえは誰かの努力から成り立っている」 齋藤 佳奈 (2021年度の「土木史と文明」の講義より)

2021-12-24 08:32:01 | 教育のこと

「あたりまえは誰かの努力から成り立っている」 齋藤 佳奈

 私が高校生のころ、近年に例を見ない大きな台風が上陸した。私の住んでいる地域は内陸だったため、普段基本的には台風の影響をそこまで受けない。しかし、その台風は伊勢湾台風を思い浮かばせるもので、初めて見る雨の降り方であった。夜が明け、雨がやんだので外に出てみたところ、あちらこちらで土砂崩れが発生し山肌が見えており、川の水が道路まで流れ込んだ跡がはっきりとついているなど台風の大きさを物語っていた。そして私は1㎞程離れたところに住む友達からある連絡を受けた。それは、その友達が住んでいる区域では水道が止まってしまっているというものであった。私の家でもその時は電気が止まっていた。昼間であったためまだ影響は少なかったが、普段通りに生活できないことにストレスと、いつになったら回復するのかわからない不安に襲われていた。停電しただけでもこのような状態であるのに上水道が使えないというのは想像がつかなかった。その友達曰く、蛇口をひねると泥の混ざった濁った水が出てきてしまうらしく、私が住んでいる地域はダムからの水を使用しており、その友達が住んでいる地域では山からの水を引いておりその配管が損傷してしまったためこのようなことが起きたということであった。幸い一日程度で復旧したが、かつてはこの電気も水道も通っていないという生活が当たり前だったと思うと、到底生活できない気がした。

 現在の日本ではたいていどこでも蛇口をひねれば飲める水が出るし、スイッチを入れれば照明がついたり、コンセントにプラグを差し込めば電化製品が使える。蛇口に出てくる水はどこから繋がっているのか、家の近くに有る電柱からコンセント迄家中にどうやって電気が通っているのか自分の家でも知らない人が多いだろう。ましてやその水や電気が元はどこからどのようにしてきているかなんて知る由もない。そうやって一般市民にはわからないように影から人々の暮らしを支えるためのインフラ設備は技術の結晶であると思う。しかし、見えないからこそ知る機会がない。その素晴らしさ、ありがたみが分からない。例えば地球温暖化対策のために節電しようであったり、地球上で使える水の量は限られているから節水しようといったことを耳にすることは多い。しかし、自分が使っている電気や水とその出元が繋がっている実感がわかないから、自分の行動が環境にかかわってくるといわれても理解しがたい。昔のように家に井戸がありそこから水を汲んでいるわけではないから水が出てくるというのが普通のことではないことが分からない。

 現代人は、上下水道が整備されていないとどのようなことが起きるか、昔の人々がどれだけの努力をして水道を引いたか、それによって暮らしがどのように変化したのか、学習することが必要である。歴史の授業などで中世のヨーロッパは不衛生であり感染症が大流行したということは習ったかもしれない。ではどのように上下水道を整備したから、何が改善されて衛生的になったのか、そこまで学校では教えてくれない。知識を表面の上澄みだけの部分だけ掬い取って与えられるだけで、どれが私たちの生きる術にはならない。本当に大切なのはその下に隠れてしまっている根本の部分であり、これらが誰かによって支えられているという事実である。そしてその技術は何千年も昔からの人類の知恵の集積なのである。

 インフラ技術、土木技術は今でも研究や過去の結果をもとにして進化している。それらの多くは、地面の下であったり、構造物の下や中であったり直接人々の目に触れることのないところで活躍している。しかし土木技術者も人々の目に届き、感謝されることを望んでいるわけではないと思う。土木は影に隠れてしまうが、なくてはならない縁の下の力持ちである。私たちはそういうものを失ったときに気づくものだが、平時からインフラのありがたみを感じて生きていきたいものである。そのために学校でもっと私たちの暮らしがどのようにして成り立っているのか教えることが必要であると考える。見えないから知らなくていいのではない。知ろうとする姿勢が求められているのであると思う。私たち土木を学ぶものとしても土木がそれだけ国や世界に大きな影響を与えるものかを知り、すべてを理解することはできないかもしれないが、自分たちが学んでいることを実践していったら日本の将来を背負うようになるのだというくらいの意識をもって、過去の偉人と事例に学んでいきたい。そして、やはり自分の暮らす国であるのだから、自分たちでどうにかしてやろうという気持ちを持っていたい。

 


学生による論文(82)「離島における水供給」北 拓豊 (2021年度の「土木史と文明」の講義より)

2021-12-24 08:30:54 | 教育のこと

「離島における水供給」 北 拓豊

 日本は6800を超える数の島々を有する島国であり、その島々のうちの約6%に当たる416島が有人島である。人が住んでいる以上、当然それらの有人島には住民が文明的な生活を送ることができるレベルのインフラの整備が求められる。規模の大きな島はともかく、離島において整備が難しいインフラの一つが水道である。水道と並ぶ重要なインフラの一つとして電気が挙げられるが、これに関しては規模の小さな離島においてもその規模に応じた内燃力発電設備により、簡単に島内で発電して賄うことができる(当然、定期的に燃料を運び込む必要はあるが)。一方で、本土と違って十分な山地や大きな河川のない離島においては、水道というのは非常に整備の難しいインフラとなり得る。離島における水道の整備という課題を解決するために、島によって多種多様な策を取っている。例えば、比較的本土に近い島では、本土からの送水管を敷設することによって安定的な水の確保を実現している。この方法を採用している島の一つが、山口県の周防大島(屋代島)である。ただ、周防大島を例に挙げた時点で既にお分かりかと思うが、この方法には大きな弱点がある。本土からの送水に全てを頼っているために、送水機能が停止すると島内の水道インフラも完全に停止してしまうのである。周防大島では3年前に大型貨物船が橋梁に衝突したことにより送水管が破損し、1ヶ月以上の間断水が続いた。結果として住民は給水所から重い水を自宅まで運ぶこととなり、人口の6割が75歳以上で高齢化の進んだ周防大島では、重いものを運んだことによると思われる骨折が相次いだ。では一体なぜそのような事態に陥ってしまったのか、理由は単純だ。水の供給設備のバックアップを作っていなかったからである。水という生命の維持に必ず必要となるものの供給を本土からの供給に全て任せてしまうのは非常にリスクが高い。そのため、離島においては島内で完結した供給設備(海水淡水化設備など)を整備しておかなければ、非常時への備えは十分とはとても言えない。離島への海底送水管も各地で老朽化が進行している現在、地震などにより各所の送水管が同時に破損することも考慮して事前に対策をしていかなければ、いざというときに住民の生活と生命を守ることができなくなるのではないかと思った。

 


学生による論文(81)「辰巳用水にみる上水道整備の恩恵」 梶 遼太郎 (2021年度の「土木史と文明」の講義より)

2021-12-24 08:29:05 | 教育のこと

「辰巳用水にみる上水道整備の恩恵」 都市基盤学科2年 梶 遼太郎 

 私は、今日の授業の中で古代ギリシャ人が逆サイフォン式の水道を建設し、上水道を整備してローマの土地を豊かにした歴史や逆サイフォン式を取り入れた熊本県の通潤橋の事例を聞いて、今年の夏に旅行で訪れた金沢の辰巳用水を思い出した。この辰巳用水は通潤橋と同様、逆サイフォン式を取り入れており、日本四代用水の1つとして知られている。私は、この辰巳用水の事例を軸に実際に見た経験も踏まえながら上水道を整備することによる私たちへの恩恵について論じる。

 まず辰巳用水の概要について述べる。辰巳用水は藩の命を受けた一人の天才技術者の設計のもとでつくられた。その天才技術者の名前は、町人の板屋兵四郎である。現在では、百万石の偉容を忍ばせる金沢城には巨大な堀の水があり、日本三大名園である兼六園には彩る豊かな水が流れているが、辰巳用水が整備される前の江戸時代にはこのような設備はなく、この用水は兵四郎の努力の結晶である。この用水が建設されるようになったきっかけは、1631年の金沢大火といわれており、当初の目的は金沢城の防衛・防火であったとされている。その目的のもと、金沢城の辰巳(東南)の方角である犀川上流に水源を求め、約3キロの区間をトンネルで穿って導水し、開水路を経て兼六園の霞ヶ池に貯水する工事が行われたが、その工事の中で私は困難な箇所は2つあったと考える。

 1つ目は、兼六園と金沢城の3.4mの落差を乗り越え、途中にある低い空堀の箇所を通過しなければならない点である。当時ではその大規模な水頭差を克服する工事は他に見られず、大変難しいこうじであった。兵四郎はその困難な区間を水路に水が漏れないようにするために木管を採用し地中に埋めた密閉管路とするという逆サイフォンの原理を工夫させた自らの工夫で実現させた。

 2つ目は、水路を建設する際の軟弱地盤が各所に存在した点である。現代とは違って角度という概念がない中でその地盤を避け、正確無比な勾配を保ちながら細やかな計算、工夫を随所に取り入れており、兵四郎の技術力の高さと技術者としての誇りがうかがえる。また現在でも極めて高い測量技術が必要とされる導水トンネルを当時の技術で成功に導く器量も素晴らしい。

 この辰巳用水の建設に伴って人民が受けた恩恵は非常に大きいと私は考える。防衛・防火としての役割に加え、用水を使用した水田面積の増加に伴う農業の発達など加賀藩にとっても当時の人々にとっても恩恵は大きかっただろう。加賀百万石といわれるゆえんもこの水路を知ればわかるだろう。またこの水路は補修を加えながらも現在まで貴重な水を金沢の町に供給し続けており、現在の人々も日々恩恵を受けながら暮らしている。この水路の建設により日本を代表する情緒あふれる町並みが形成され、観光地としても人気となっている。実際に訪れた際に水路がきれいに整備され、美しい水路群が町並みに溶け込み、美しい町であると感じた。

 このように上水道を整備することによる恩恵は当時の農業や国としての国力を上げるだけでなく、現在の町並みや水道整備にもつながっているということを多くの人に知ってもらいたい。金沢ではまだ水路の恩恵を目に見て感じ取れるが、大都会ではなかなか水道設備などが目に見えないので、水道整備を含む水系インフラに恩恵を感じる人は少ないだろう。日々生活できているのはインフラによる恩恵を受けているからであるということを多くの人々が認知する日が訪れることを期待したい。

<参考文献>
・水土の礎 「加賀を創造した人々 1章 辰巳用水の才」
 https://www.suido-ishizue.jp/nihon/03/01.html 
(最終閲覧日:2021年12月18日)

・辰巳用水に学ぶ会
https://tatsumimanabukai.com/%e8%be%b0%e5%b7%b3%e7%94%a8%e6%b0%b4%e3%81%a8%e3%81%af/
(最終閲覧日:2021年12月18日)


学生による論文(80)「新しい公共 ~武士道からの決別~」 落合 佑飛 (2021年度の「土木史と文明」の講義より)

2021-12-24 06:56:59 | 教育のこと

「新しい公共 ~武士道からの決別~」 落合 佑飛

<目次>
はじめに
うまく勝つこと、惻隠の情
勝海舟の反論
自己中心的な傾向
令和の“道”

はじめに
 近年日本社会の凋落が進んでいる、と先生はよく述べている。ただ私たちの世代にとっては現在の状況が普通の状況であるから、私自身は格別な問題を感じないまま高校生活を終えた。しかし現在様々な課外活動を行うにあたって思うところがあり、武士道無き後の日本社会の変遷とそれに伴って求められている社会課題への解決の糸口となる考え方を述べた。
 はじめに古代ローマと武士道の共通点、続いて武士道が時代の変化とともに廃れる過程を述べた。また、武士道が廃れてからの日本社会の考え方の変化を述べた。そして最後に現在の社会が抱える問題に対する解決の糸口を提示している。
 今回の提示が草の根から日本をよくしていく一助になれば嬉しい。

うまく勝つこと、惻隠の情
 古代ローマの市民は何より名誉を重んじた。中産階級から上流階級の一部からなる重装歩兵はすべてローマ市民だった。かの有名なカンネの会戦でハンニバルにさんざんにされたローマ軍であったが、その後のスキピオがスペインでカルタゴ勢を蹴散らしたイリパの会戦の戦闘よりも多くの死者を残した。この二つの戦いはどちらも指揮官の戦略が素晴らしく、イリパの会戦はローマ側が完敗を喫したカンネの会戦に匹敵する戦果を挙げた。ただ、ローマ市民が名誉を重んじ、敗走を是としなかったためにカンネの会戦の死者の方が多かったのだと塩野七生は述べている。
 私から見ると、ハンニバル登場までのローマ軍は基本的には常勝軍団であったが勝ち方がうまい。勝ちながらも負けた国に対して寛容な精神で統治に望んだ。
 これらは武士道につながるものだろう。武士は食わねど高楊枝、などという言葉が残されているが、武士はたとえ貧しくとも農民や商工従事者の尊敬の念を集めていた。武士道は名誉と惻隠の情を重視した考えであった。
 ローマの敗者への待遇は、武士道の惻隠の情に通ずるものがある。勝って兜の緒を締めよ、という言葉もあるが、武士もローマも勝ち方に気を配ったのである。
 勝った先で根こそぎ略奪を行ったという蛮行の例も日本史にはあるが、そうした軍勢はすぐに歴史の舞台から姿を消した。木曽義仲である。彼は現在の飛騨あたりから平家憎しで出陣した。まもなく現在の富山県と石川県の県境にあたる倶利伽羅峠の戦いに臨み平家を倒す。これに乗じて義仲はそのまま一番に上洛を果たした。しかし、義仲率いる軍勢はその後の京での略奪により源義経に倒される。勝ってその地に住む人々の心も掴むところまでが戦争であった。
 思えば、中国の古代の戦いと、日本の戦いは対照的であった。中国の武将は戦争で勝ったら何が欲しいかと言えば人であったという。中国には広大な土地がある。だから土地には困っていなかったのではないか。土地だけあっても腹は満たされない。中国の古代の戦いの目的は人間を自分の領土に連れてきて農作業をしてもらうことにあったのではないか。
 対して日本は古くから土地が無かった。今でこそ山を切り開いてコンクリートによるニュータウンを建設しているが、当時はなかなかそうしたことも難しかった。だから日本の武将は土地を欲しがった。現に元寇にあたった鎌倉幕府も武力でモンゴル・中国勢に勝ちながらその後の滅亡を速めた。恩賞となる土地を新たに得られなかったために戦いに従事した家臣に褒美を与えられなかったためである。もともと鎌倉時代の武士は土地を平等に細分化して相続していたために暮らしは苦しく借金をしてまで遠く九州の戦場に駆け付けていたわけだから、いかに忠誠心が強かろうとこの幕府が倒れるのも致し方なかった。
 日本は以上のように土地を求めての戦いがメインだった。コメ=財力=力であった時代にあってそれを生み出す土地こそ価値の高いものだったのである。
 古代中国が戦争に勝ったのちに人を連れてきたのに対し、日本はそうはしなかっただろう。戦いに勝っても自国領に連れてくるべき土地が無かったからである。日本の戦ではある武将が勝って土地を得たとして、そこを耕すのは戦争前と変わらない農民であっただろう。農民からすれば付くべき武将が変わっただけであっただろう。つまり、農民は、特に国境付近の農民はどちらに仕えるかを選びうる構造にあったと言える。これは画期的なことで、勝った武将の統治があまりにひどければ農民は奸計を働いて主を変えることができた可能性があるのだ。
 ここに武士の惻隠の情が生まれたのではないかと私は思う。勝ち方が大切だったのである。勝ったのちの処理が良くないと恨みを買うだけでメリットが無かった。そしてこうした処理がうまい武士のみが生き残ったので江戸期以降、武士道と言えば惻隠の情、とこうなったのではなかろうか。

勝海舟の反論
 しかし、だから日本国の美しい文化が武士道にある、とは言えない。武士道が働かずして禄を貰っていた武士の考え出したことであったからだ。田畑を耕すこともなく、商売をすることもなかった武士は江戸時代の平和な世にあって是非に読書など勉学をして恥とか名誉とか言っていなくては仕方がなかったのではないか、ということである。断っておくが、これは私の意見ではなく、勝海舟の言葉である。
 ご存じのように勝海舟は『武士道』著者の新渡戸稲造よりも少々前の人間で、江戸幕府側の人間でありながらも開明な見識を持っていた。そのため坂本龍馬をはじめ多くの人物の面倒を見ていたとも言われている。勝の最も大きな功績はおそらく江戸城無血開城であるだろうが、これも江戸を火の海にしては諸外国に食い物にされてしまうという危機感がそうさせたはずであり、さすがの見識である。
 さて、このように大人物であった勝海舟は武士道には懐疑的だったのである。「確かに武士道が廃れることは由々しいが、元の通り武士に禄を与えられるようになればすぐにでも復活させよう(させられるだろう)」、と明治期に入ってから述べている。

自己中心的な傾向
 果たして江戸期までの武士の特権が取り払われると、明治以降の激動の世の中にあって武士道は霧散してしまった。武士道を捨てた日本人はどのようになったのか。恥も外聞も捨てて金儲けをするようになったのではなかったか。武士の時代、金儲けは恥ずべきことと考えられていた節があった。
 金儲けばかりを考えるようになった、ということは自分のことばかり考えるようになったということである。この考え方は高度経済成長期のような日本が誰の目にも明らかに成長している場合はまだましだが、現在のように緩やかな回復基調の経済を誰も実感できていないような場合には大変な問題を引き起こす。
 電車に乗ると「優先席ではお年寄り、お体の不自由な方、妊娠中や乳幼児をお連れのお客様に席をお譲りください。優先席付近ではマナーモードに設定の上、通話はお控えください」という趣旨のアナウンスが流れる。自治会の参加率は低い水準をずっと推移している。あるいは蛇口をひねれば水が出ることを当たり前に思う人々がいる。
 上の例はすべてお金を一番の価値だとするから起こる問題である。恥も外聞も捨てて金儲けに走ったから起こるのである。けれども、例えば優先席の例、一見拝金主義とは関係ないように思われる。ただ単にマナーの問題では、と感じるのではないか。または優先席の意義の説明である、と思うのではないか。が、そうした人も、優先席の導入から久しく経ち、優先席の意義が定着しているなかでもこのような呼びかけをしているのは、優先席の適切な利用がなされないためだという点は認めてくれるだろう。こういう側面があることは日々の暮らしを観察すれば明らかである。ではなぜ適切な利用がなされないのか。それは自己中心的な考え方が蔓延しているためである。他人のことは差し置いても自分は座りたい、という人が多いという事実はあるだろう。その自己中心的な考え方の大本が拝金主義にあるのだ。拝金主義とは金儲け大好きバンザイの考え方のことだと思っているが、人より多く儲けたいと思ったら他人は蹴落とすしかない。周りの人たちについては、一部は戦略的パートナーで残りは敵、といった考え方に変容しているはずである。席に座りたいという気持ちもまさにこの一環で、同じ車内を共有する乗客は全員敵であり、自分だけ座れれば大満足、という考えだろう。他にも睡眠も食事も人間にとって最も大切な営みであるが、こうした部分すらも自分への投資などという考え方が共有されているように思われる。自分を金儲けのための戦士に見立てて生活しているように思われる。近年では学生の内から起業したりして、若手の社長も増えてきている。お金儲けのことばかりを考えていると言われても「普通の人の批判は根拠が無いから聞くだけ無駄である」との考えがまことしやかにささやかれる昨今にあっては、金儲けに執心する人の目を時に自らを犠牲にすることを求める公共に開かせることは不可能である。ここには拝金主義に伴う平等の幻影もちらつく。頑張った人はそれだけの生活ができる。貧しいことはそれまで適切な努力を積み重ねたかったからだ、という考え方である。これは自己責任論とも言うべき考え方で、アメリカらしい考え方ともいえる。アメリカンドリームの影の面ともいえるこの自己責任論が若者を不安に駆り立てる。金儲けをして自分の身は自分で守ることが求められているように感じられているためである。ただ、私は自分の信じる道を進むことには賛成だが、他者を切り捨てて顧みないあり方には反対である。
 以上をまとめれば、拝金主義が蔓延したことで、日本人はお金儲けに熱心になった。今に始まったことではないものの、経済の停滞が目立つ昨今にあってはわけあえるパイが少ないものだから余計に争奪戦の様相を呈してくる。そうすると何はともあれ自分の分を確保しなくては、と考える人も多くなる。その結果自己中心的な考えの人間が多く生まれてくる。
 ここからさらに広げていけば、自己中心的な考えの拝金主義者はお金で解決することを考えるようになる。自らが出向いて水道を整備する必要はなく、自ら発電する必要もない。お金で解決する。こうして拝金主義者はサービスを享受する側に堕するのである。ここまで程度が進むと、拝金主義者という名称は不適当である。拝金主義に堕した人間が悪いというだけでなく、資本主義の構造的な問題すら内包する問題だからである。現在、多くの国民は水道水がどこからきているか知らないし、知る必要もない。自分たちの地域に誰がどこでどんな風に住んでいるのかを知らないし、知る必要もない。すべて自己中心的で余裕のない考えに基づいた、自分にとって役に立つか立たないかの観点のみで判断される。これは人々の間に存在するべき公共の概念の喪失を意味する。例えば古くは水道を巡る事業は市民相互の責任によってなされていたものであるが、今では水道は公共のものであるのに日本人は関心を示さない。
 このように考えれば、武士道無き後の日本に蔓延したものは拝金主義とも呼べるもので、自助努力を中心とする自己中心的な考え方であった。
 ただ、もちろん金儲けが悪だということにはならない。金儲けは提示した価値に対する対価であり素晴らしいものであるから金は大いに儲けるべきであるが、金儲けにとらわれて自己中心的な考えに終始してしまうことは良くない。武士道の惻隠の情や名誉の考え方を放棄した現代を生きる人々は、他者への思いやりの心を捨て、自分さえよければいいという意地も格好も悪い考え方の持ち主になってしまった。

令和の“道”
 さて、武士道が廃れたということは名誉を重んじる心、惻隠の情が失われたことを示していた。武士道が廃れた結果残されたのが公共を重んじる心の喪失と拝金主義であった。
 しかし、それでも勝海舟の言った通り武士道には構造的な欠陥があるわけだから、そのまま武士道を再興させればよい、という類のものでは無い。また、『国家の品格』で紹介されているような日本人は美に対する意識がつよい、という考え方にも賛成できない。これは実質ナショナリズムで戦争につながる考えだと感じるからである。国威発揚とかそういったことで国民を扇動することは好きではない。武士道もまた、考えようによっては武士階級における他の人々への洗脳であったととれる。武士道は美しく正しかった。しかしこれも江戸幕府による巧妙な政治的な仕組みの中で生み出されたものではなかったか。いずれにしても武士道も拝金主義も100点満点の考え方ではないのである。
 私はこの論の結びを「私たちは多様な価値の中に生きていて、何が正しい情報で何が間違っているのかの判断は多様なことから学ぶことが大切で、その過程の中で自ら考え抜くことで理想的な社会を築いていける」というようなものにはしたくない。そのような美辞麗句は現実味がない。それゆえ世の中をよくすることはないし、私の中では自己中心主義に伴う公共の減退の現象は由々しいものだと思っているからである。今の日本に必要なのはきれいごとのスローガンではなく、武士道に変わる新しい公共の精神の考えの導入である。
 では、何がこれからの日本における公共の精神になりえるのだろうか。
 私は新しい公共の精神とは、感謝と責任感に根ざすものだと考える。例えば我々大学生は大学に至るまでの様々なチャンスをものにする機会を得てきた。予備校に行った人もいるだろうし浪人した人もいるだろう。大学生は大学というオプションを選択できるチャンスがあっただけでなく、大学に入る方法も選択の余地があったのである。また、大学までに至る教育機会には多大な投資がなされている。小学校中学校の教育は無償である。教科書ももらえる。しかし、これほど恵まれていても上履きが買えなかったり、給食費すら払えない家庭がある。我々は高校、大学と何も生産しないままのうのうと進学しているのに、そうした家庭の子供には進学の自由はなかった。大学に通えていたり、企業に勤めたりすることができている人々はこうした恵まれなかった環境の人々に対して奉仕する義務がある。有名大学から有名企業に就職することができた人間がいたとして、この人はこの人のみの実力でこれを叶えたわけではない。それまでにたくさんのチャンスに恵まれ、たまたま本人がそれを生かしたというだけである。彼はお金を払っているから(=納税)だけでは済まされないだけのものを受け取っているのである。我々大学生もそうだ。大学に通えている、ということはこの国に戦争や徴兵制度が無く、家庭の収入も安定しているために年間100万円以上の学費や諸経費を払ってもらえている、というような様々なレベルの幸運や厚遇のおかげで今があるのである。決して自らの実力のおかげで今の地位があるなどと思いあがってはいけない。
 そしてこの謙虚さこそが新しい時代の公共の源となりうるのではないか。我々が自身の厚遇に感謝し、それに恵まれなかった人々に還元すること、これはすなわち公共への奉仕である。私たちはもらいすぎている、という認識を持つべきである。お金だけの話ではない。様々なことに挑戦するチャンスや一生の恩師との出会いなど、我々の人生を彩るすべてのものに感謝し、それに恵まれなかった人々に還元する義務が我々にはあるのではないか。
  少なくとも私はこのように信じて地域課題実習に取り組んでいる。自分のできる貢献がどれだけのものになるかは分からないが、私は自分自身が恵まれていた分を他の人に還元できればいいと思っているのである。多くの人は自分がもらうことに無頓着で、そのくせ自分の希望ばかり主張している。我々はすでに多くのものを受け取っているということに気が付くべきである。これは経済的な話ではばかりではなく精神的な話でもそのまま当てはまる。おすそ分けの精神というか、もちつもたれつの精神というか、ありきたりな言葉で言えば助け合いの精神であろうか。人々のつながりが個人の心の豊かさにつながり、個人個人の心のゆとりが地域の豊かさにつながり、地域の元気は社会の活性化につながる。これは歴史が証明しているように思う。少なくとも隣近所に住む人の顔も名前も知らないのは長い歴史の中で現代だけである。
 情けは人のためならず、という言葉がある。私はここまで私たちがするべきこととして他者への貢献や還元のことばかりを述べた。しかし、実は貢献や還元をしていると自分の方が多くのものを受け取っているということがある。私は二つの地域課題実習に参加させてもらっているが、それぞれで学ぶことも多い。自分自身がその団体や地域にどれだけの還元を果たせているかは分からないが、還元しようと思って参加している。ところが自分自身にとってはこれらの活動がプラスに働いている。自らの境遇に感謝し、それを還元しようと参加した団体であるのにさらにその場で貴重な経験ができていることはとてもありがたい。封建社会が崩壊しそれに伴って武士道を失った日本において、この新しい公共の考え方は、感謝の還流する温かい社会を生み出すものである。

<参考文献>
『対訳 武士道』 新渡戸稲造 山本史郎訳 朝日新書
『勝海舟の人生訓』 童門冬二 PHP研究所
『ローマ人の物語4 ハンニバル戦記[中]』 塩野七生 新潮文庫(全43巻)ほか
『国家の品格』 藤原正彦 新潮新書