おけはざま山の本陣から追われた今川義元が
服部小平太と毛利新介によって打ち取られた最期の地…
その桶狭間の戦いの中心地が
今では
綺麗に公園に整備されてて
その名も
ずばり
桶狭間古戦場公園
になってまして
即ち
桶狭間の古戦場の跡地が
この公園になっているんですね!!
こちらが
公園に生まれ変わる前から
あっただろうと思われる
古戦場の跡を示す石碑…
地元では、「田楽坪」と呼ばれていて
村人が毎年この「田楽坪」で鍬を立て田楽の舞を行っていたけど
今川義元が討ち死にしてからは行われなくなったとのこと…
地元の人は
ひょっとしたら今川義元公贔屓だった??のでしょうか…
昭和初期の
「おけはざま山」の写真と
その「田楽坪」の写真解説ボード
今となっては
すっかり住宅地となっていますが…
さてさて
この
桶狭間古戦場公園
遊具に…この芝生の広さと
一見、どこにでもありそうな…
フツーの公園ですが…
その片隅には
「今川義元戦死の地」
その右側…
写真の中央には
今川義元公のお墓
さらに右側には
「駿公墓碣」と刻まれた墓石があります…
なんでもこれ、今川義元公が
休息のために馬をつないだとされる「ねず塚」を
1950年代のはじめに整備したところ
土中から「駿公墓碣(ぼけつ)」と書かれた石碑が出てきたそうな…
「駿公墓碣」の「駿」の文字は、優れた、もしくは秀でたと意味し
駿公とは駿河の国の優れた立派な人との意味してるとか…
すなわち今川義元公…
この墓が作られた年月は不明ですが
おそらくこの地に住む村人が敗軍の将を弔う事をはばかり
墓石を埋めてひっそり供養したものではないかと…
そんな解説でありました…
地元の人は
やっぱり今川義元公贔屓だった??のでしょうか…
そうそう…
この「駿公墓碣」を紹介するときに
すでに書いてしまいましたけど…
今川義元公が
休息のために馬をつないだとされる「ねず塚」
がありまして…
この枯れた木が「ねず木」
もともとはこの場所ではなく「ねづ塚」にあったものですが
移植して枯れ木としてここに残してあるんだけど…
ホントかどーかわかんないけど
この木に触れると熱病になるとの伝承が今も残っているんだって
わざわざ…
熱病にはなりたくないので
もちろん、私、触ったりはしませんが…
けっして
この枯れ木に新型コロナウイルスがへばりついている…と言う訳ではないと思われますが…
この桶狭間の合戦のことを詠んだ
太田錦城さんの「桶狭間を過ぐ」の石碑…は
割と新しめ…
板の解説板もありました
この詩にあるように
戦い途中までは今川軍優勢で
今川軍は驕っていたのでしょうか…??
江戸中期の漢学者
太田錦城さんは
このあたりの地元民とは違って???
今川義元の10倍に余る大軍を打ち破った
織田信長ビイキだったと…私はよんだ(想像した)けど
いかがでしょう???
「義元公首洗いの泉」
とても
ここで義元公の首を洗ったなんて
思えないほど…
きれいに整備されていました…
こんな感じの
ドキッとする古戦場ならではのいわれのものが点在してるんですが
この公園の中央には
桶狭間の戦いの
案内板のそばに…
実に立派な…
実に立派な…
実に立派な…
今川義元公と
織田信長公が
仲良く???並んで…おりまして
織田信長公と
今川義元公
私の見た印象ですが
今川義元公の方が
ウンとウンと威厳があるように感じられるのですがいかがでしょう??
この像の制作者は
今川義元公ビイキと私は思うんだけど
実際は…どうなんでしょうね…
さらに驚くことに
この桶狭間古戦場公園
桶狭間合戦時の織田軍と今川軍の
城砦や当時の軍の配置がジオラマになって
作られているんですね…
あの…
もう一度言っておくけど
城や砦が…ジオラマになって作られていると言う訳ではなくて…
あくまでも配置が…配置だけ??のジオラマであります…
この石が大高城
こちらが
丸根砦
といったようにね…
でも
戦の前に戦勝祈願で訪れた熱田神宮に
勝ったお礼で奉納した信長塀だけは
なんかリアル…笑
このジオラマ製作者は
織田信長ビイキとみた??…笑
石なので
みため、リアル感は全然ないのですが
配置は…ばっちりで…
丹下砦
鳴海城
川の奥の中島砦まで
配置が見事に再現されています…
鳴海城
善照寺砦
もう…城と砦の区別なんてつきません!
釜ヶ谷
ここで暴風雨の止むのをまって
おけはざまに陣を構えてた今川軍へ
一気に攻め立てたのです…
その
おけはざま山
こちらは
今川軍の先鋒隊
松井宗信隊が着陣した
高根山
ここらへんで
石の色にお気づきでしょうか…
青い石は「織田軍の城砦」
赤い石は「今川軍の城砦」と
石の色で区別されているんですよ!!
街道まで
しっかりと表示…
知らず知らずのうちに
鎌倉街道と東浦街道の分岐点まで
歩いていました??
立派な
沓掛城
もっと立派な
清州城
このジオラマによると
桶狭間の戦いが
リアルに行われたのはこのあたり…笑
まあ…桶狭間の戦いをこのジオラマから
妄想するには
あまりにも抽象化しすぎで…
よほどの桶狭間の戦いマニアじゃないと
ピンとこなくて…
鳴海城や
丸根砦に腰を下ろして
休憩するだけの私でありました…汗…
その後は
おけはざま山
今川義元公が陣をとってて
暴風雨がやんだと同時に一気に攻められたという
「おけはざま山」跡地へ
住宅地の中に
立て看板があるだけ…
になってました…
今は住宅に囲まれてますが
合戦当時は見晴らしがよかった…のでしょうね…
最後に立ち寄った
「桶狭間古戦場観光案内所」
こんなイケメンの像が展示されてて
明らかに…明らかに…
織田信長公ビイキに違いない…笑
PS…「桶狭間古戦場公園」にあったもの…
私の勝馬投票券代
かなり…この公園の整備費に使われているかと思えば
競馬で負けても…まあ、いいか…汗
服部小平太と毛利新介によって打ち取られた最期の地…
その桶狭間の戦いの中心地が
今では
綺麗に公園に整備されてて
その名も
ずばり
桶狭間古戦場公園
になってまして
即ち
桶狭間の古戦場の跡地が
この公園になっているんですね!!
こちらが
公園に生まれ変わる前から
あっただろうと思われる
古戦場の跡を示す石碑…
地元では、「田楽坪」と呼ばれていて
村人が毎年この「田楽坪」で鍬を立て田楽の舞を行っていたけど
今川義元が討ち死にしてからは行われなくなったとのこと…
地元の人は
ひょっとしたら今川義元公贔屓だった??のでしょうか…
昭和初期の
「おけはざま山」の写真と
その「田楽坪」の写真解説ボード
今となっては
すっかり住宅地となっていますが…
さてさて
この
桶狭間古戦場公園
遊具に…この芝生の広さと
一見、どこにでもありそうな…
フツーの公園ですが…
その片隅には
「今川義元戦死の地」
その右側…
写真の中央には
今川義元公のお墓
さらに右側には
「駿公墓碣」と刻まれた墓石があります…
なんでもこれ、今川義元公が
休息のために馬をつないだとされる「ねず塚」を
1950年代のはじめに整備したところ
土中から「駿公墓碣(ぼけつ)」と書かれた石碑が出てきたそうな…
「駿公墓碣」の「駿」の文字は、優れた、もしくは秀でたと意味し
駿公とは駿河の国の優れた立派な人との意味してるとか…
すなわち今川義元公…
この墓が作られた年月は不明ですが
おそらくこの地に住む村人が敗軍の将を弔う事をはばかり
墓石を埋めてひっそり供養したものではないかと…
そんな解説でありました…
地元の人は
やっぱり今川義元公贔屓だった??のでしょうか…
そうそう…
この「駿公墓碣」を紹介するときに
すでに書いてしまいましたけど…
今川義元公が
休息のために馬をつないだとされる「ねず塚」
がありまして…
この枯れた木が「ねず木」
もともとはこの場所ではなく「ねづ塚」にあったものですが
移植して枯れ木としてここに残してあるんだけど…
ホントかどーかわかんないけど
この木に触れると熱病になるとの伝承が今も残っているんだって
わざわざ…
熱病にはなりたくないので
もちろん、私、触ったりはしませんが…
けっして
この枯れ木に新型コロナウイルスがへばりついている…と言う訳ではないと思われますが…
この桶狭間の合戦のことを詠んだ
太田錦城さんの「桶狭間を過ぐ」の石碑…は
割と新しめ…
板の解説板もありました
この詩にあるように
戦い途中までは今川軍優勢で
今川軍は驕っていたのでしょうか…??
江戸中期の漢学者
太田錦城さんは
このあたりの地元民とは違って???
今川義元の10倍に余る大軍を打ち破った
織田信長ビイキだったと…私はよんだ(想像した)けど
いかがでしょう???
「義元公首洗いの泉」
とても
ここで義元公の首を洗ったなんて
思えないほど…
きれいに整備されていました…
こんな感じの
ドキッとする古戦場ならではのいわれのものが点在してるんですが
この公園の中央には
桶狭間の戦いの
案内板のそばに…
実に立派な…
実に立派な…
実に立派な…
今川義元公と
織田信長公が
仲良く???並んで…おりまして
織田信長公と
今川義元公
私の見た印象ですが
今川義元公の方が
ウンとウンと威厳があるように感じられるのですがいかがでしょう??
この像の制作者は
今川義元公ビイキと私は思うんだけど
実際は…どうなんでしょうね…
さらに驚くことに
この桶狭間古戦場公園
桶狭間合戦時の織田軍と今川軍の
城砦や当時の軍の配置がジオラマになって
作られているんですね…
あの…
もう一度言っておくけど
城や砦が…ジオラマになって作られていると言う訳ではなくて…
あくまでも配置が…配置だけ??のジオラマであります…
この石が大高城
こちらが
丸根砦
といったようにね…
でも
戦の前に戦勝祈願で訪れた熱田神宮に
勝ったお礼で奉納した信長塀だけは
なんかリアル…笑
このジオラマ製作者は
織田信長ビイキとみた??…笑
石なので
みため、リアル感は全然ないのですが
配置は…ばっちりで…
丹下砦
鳴海城
川の奥の中島砦まで
配置が見事に再現されています…
鳴海城
善照寺砦
もう…城と砦の区別なんてつきません!
釜ヶ谷
ここで暴風雨の止むのをまって
おけはざまに陣を構えてた今川軍へ
一気に攻め立てたのです…
その
おけはざま山
こちらは
今川軍の先鋒隊
松井宗信隊が着陣した
高根山
ここらへんで
石の色にお気づきでしょうか…
青い石は「織田軍の城砦」
赤い石は「今川軍の城砦」と
石の色で区別されているんですよ!!
街道まで
しっかりと表示…
知らず知らずのうちに
鎌倉街道と東浦街道の分岐点まで
歩いていました??
立派な
沓掛城
もっと立派な
清州城
このジオラマによると
桶狭間の戦いが
リアルに行われたのはこのあたり…笑
まあ…桶狭間の戦いをこのジオラマから
妄想するには
あまりにも抽象化しすぎで…
よほどの桶狭間の戦いマニアじゃないと
ピンとこなくて…
鳴海城や
丸根砦に腰を下ろして
休憩するだけの私でありました…汗…
その後は
おけはざま山
今川義元公が陣をとってて
暴風雨がやんだと同時に一気に攻められたという
「おけはざま山」跡地へ
住宅地の中に
立て看板があるだけ…
になってました…
今は住宅に囲まれてますが
合戦当時は見晴らしがよかった…のでしょうね…
最後に立ち寄った
「桶狭間古戦場観光案内所」
こんなイケメンの像が展示されてて
明らかに…明らかに…
織田信長公ビイキに違いない…笑
PS…「桶狭間古戦場公園」にあったもの…
私の勝馬投票券代
かなり…この公園の整備費に使われているかと思えば
競馬で負けても…まあ、いいか…汗