新・日記どす(DOS)

写真は「ビートルズ」のヘルプごっこ(笑)~音楽からB級スポット訪問記まで、幅広くいろんなことを…笑いをこめて…綴ります~

四日市にある浜田城址…鵜森神社を参拝する…

2021-06-12 07:27:32 | 歴史史跡

近鉄四日市駅から西側に向かって
とほとほ徒歩で歩いて5分くらいでしょうか…

鵜の森公園がありまして



ここには…
もともとは戦国時代に
当地を治める田原美作守忠秀によって築かれた

浜田城


があったとのことで
城址マニアの私…
はい、土塁や石垣をみて
勝手に妄想の中で築城して
古のロマンに想いを馳せる
妄想城址マニアの私…
喜んで、行ってきました!!











1470年に田原美作守忠秀がこの地に城を築き浜田家と称したそうな…





忠秀は東海道を城東に移し
東西に大道を通して市街を構成し
市場をひらいて今日の四日市の発展の基礎をつくったとのこと…
浜田家は忠秀から紀伊守藤綱、遠江守元綱と3代106年間続いたが
1575年織田信長の伊勢侵攻により
元綱は負傷しつつも
子息・重綱を脱出させた後、城に火をかけて切腹して果て
1575年に浜田城の歴史は閉じることになる…
その後、重綱は、父の居城を攻めた織田家、織田信雄に仕えることになるも
1584年、秀吉と信雄の戦で討ち死にし、浜田家(田原家)は完全に滅びたとか…




石に刻まれていたらしい
碑文は風雨にさらされて
長い年月で、読解不能




公園西側にあった
池は、当時は堀だったのでしょうか…


さらに、こうして残っている石垣は
当時のものなのでしょうか…











公園として
綺麗に整備されているので
なかなか古のロマンに浸るには
難しい光景ですが…



主郭部分だったと思われる
公園内には
鵜森神社が鎮座しており

浜田家(田原家)滅亡後
旧臣たちが城址に祠を建て
浜田家(田原家)の遠祖・藤原秀郷と、浜田城主田原忠秀以下
四代の霊をお祀りしたのが
その鵜森神社の始まりだとか…

ちなみに
「鵜森」という名は、かつてこの辺りに海鵜が多く生息していたからくる地名だとのこと…



鵜森神社


御祭神は
天照皇大御神 建速須佐之男命
合祀として菅原道真公の他に先ほど述べた
浜田(田原)家に縁のあった俵紀伊守藤綱と
城主であった俵美作守忠秀公、 俵遠江守元綱公、 俵與右衞門尉重綱公











鳥居の前には阿吽の狛犬








その左手には

模擬冠木門が復元されており
この神社の境内は
ああ、ここが城址だったんだなということが…より想起される…








ではでは
鳥居をくぐって



こちらは
手水舎





ではでは
さっそく
拝殿にて
「二礼二拝一礼」






拝殿の右側には

田原稲荷神社


おそらく
浜田家は、もともとは田原家…
その田原を名につけた稲荷神社ということでしょう…

御祭神は
保食神・猿田彦守・大宮能売命
田原家の鬼門除けの鎮守として
旧境内社(稲荷社・菅原社・御霊社)中では最古社

















境内には

包刃塚







他には
皇大神宮参拝所など







さて鵜森神社には
平安時代末期の作の「十六間四方白星兜鉢」がありまして

これは藤原秀郷が三上山のムカデを退治した際
褒美として龍神から贈られたと伝わるものだとか…
毎年十月の第二日曜日だけ公開されるらしい…





その写真パネル





鵜森神社の絵馬も
「十六間四方白星兜鉢」





これは
藤原秀郷が三上山のムカデを退治した図…














こんな化け物みたいな
ムカデを退治したんだから
世間を恐怖の闇に落としている
新型コロナウイルス退治も
この鵜森神社の神様なら期待できるかも???



「う、もり…(鵜、森)」
「う、もり…(鵜、森)」
「う、もり…(鵜、森)」

「う、むり…(う、無理)」


なんて言わないでね!!
神様!お願い!!!