超人日記・俳句

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<span itemprop="headline">ニーチェ対ハイデガー</span>

2008-10-23 23:41:01 | 無題

ハイデガーはナチスに期待して期待を裏切られてから、ニーチェの本格的な研究に入った。よく言われるようにニーチェの「力への意志」に近代戦争の起源を見たとまでは言い切れない。けれどもある種の憤りがニーチェ研究に向かわせたことは間違いない。
ハイデガーは人々の存在忘却を憤る。人々は、そして形而上学さえも、ひとつひとつの個物を成り立たせている在るという働きを、物事を在らしめるという働きを忘れている。私が、木立が、教会の建物が、小鳥が、何気なく成り立っているのも、この在るという働きのお陰ではないか。それなのに形而上学者でさえそのことを深く考えずに存在忘却している。
そもそも近代の技術文明自体が存在忘却のために危機に瀕している。近代技術は自然から資源を搾取する。それがテクノロジーである。だが、古代ギリシアではその語源テクネーはもっと違った意味合いを持っていた。テクネーはポイエーシス(創作・詩作)の手助けをすることだった。ポイエーシスとは、ピュシス(自然)の立ち現われを迎え入れることだった。自然が無限の形で現象界に立ち現われてくるその神秘に立ち会うのがテクネーの原義だった。この場合の自然とは、ほぼ自分の言う存在の働きと同一である。それなのに近代技術は自然を物質としてみて資源を取り出すことしか考えていない。これこそ近代人の存在忘却の証である。最後の形而上学者ニーチェも結局のところ存在忘却している。そんなふうにナチズムに裏切られたハイデガーは思索した。
だが、後の世から公平に見て、それはニーチェを過小評価しているのではないか。ニーチェこそ、なぜ本質世界と現象界を分けて前者を良しとし、現象界を、このリアルな地上を貶めるのか、むしろ現象界の微妙な差異を探究することで十分ではないか、天国ではなく地上を、この生を肯定して、何度でも何度でもこの生を繰り返すとしても、この生を自分で引き受けようと言った形而上学の否定者であった。
それに私はニーチェの「力への意志」が存在忘却だとは思えないのだ。すべてのものには力への意志がある。私が、木立が、教会の建物が、小鳥が、何気なく成り立っているのも万象を貫く力への意志があるからだ、とニーチェは言った。だとすれば、この潜在的な力への意志とは、万物を在らしめている働きと極めて近い作用ではないか。おそらく意志は自力で存在は他力という点ですれ違っているだけではないかとさえ私には思える。ハイデガーがニーチェを存在の哲学の先駆者とみなしていたら、実り豊かな結論へ導かれたのではないかと思えてならない。



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