荒川三歩

東京下町を自転車で散策しています。

千駄木の「鶴の湯」が無くなっていた。

2016年12月25日 | 散文
文京区千駄木には古い家が沢山あります。


こんな立派な家(旧高村光雲邸)がある一方で、


こんな路地の奥に入って行くと、




意外ですが、銭湯があるのです。
「鶴の湯」です。

千駄木にも銭湯があります。

鶴の湯脇の路地を入って行くと、


大きな家や普通の一軒家だけでなく、この様なモルタル造りのアパートもあるのです。


鶴の湯はこのような住民に支持されています。


久し振りにあの路地に来てみたら、雰囲気が違います。

奥の空間が空いています。

鶴の湯がありません。




この路地の奥にある、


アパートの住人達はどうするのでしょう?
内風呂の無いアパートも存在が危ういです。
いずれ取り壊されてしまうのでしょう。

また街の景色が変わっていきます。
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初冬の千駄木へ

2016年12月25日 | 散文
千駄木へはいつもの路地から入ります。


「満足稲荷神社」
民家の脇に石碑というか表札があります。


案内板を読みます。
「この稲荷神社は通称『満足稲荷』とか『東(あずま)稲荷』とか呼ばれています。祭神は稲を司る神、倉稲魂命(うがのみたまのみこと)です。江戸時代、当地は上野寛永寺領内、輪王寺の御薪林で東山と呼ばれていました。

明和4(1767)年正月、御薪林の住民が京都伏見稲荷本宮より、宮司羽倉摂津守信郷から御神体を授かり、当地に勧進鎮座したのがこの社の興りです。

満足稲荷と呼ばれたのは、豊臣秀吉が文録年間(18921~697年)、伏見桃山時代守護神として伏見稲荷を鎮座してから幸運に恵まれ『満足、満足』と呼称した故事によります。

たび重なる戦災、自然災害で社殿の破損が進んだため、町内の崇敬者により、昭和27(1952)年今日のような社殿が造営復興されました。神社には、高村光雲作の神輿や江戸期の絵馬が保存され、境内も江戸の面影を今日に伝えています。

本殿からの景色です。
住宅に囲まれ、子供の遊具がある小さな境内です。

先ず、輪王寺の領地が広かったとは聞いていましたが、ここまでとは思っていませんでした。
次に、境内に「江戸の面影」は感じられません。
そして、本殿を覗きましたが、神輿や絵馬は見当たりませんでした。

そんな説明を読んだので、高村光雲の旧宅へ行きます。




門内を覗きます。


「高村光雲・岡周(とよちか)遺宅 
高村光雲(1852~1934年)は、浅草の生まれで旧姓中嶋 仏師高村東雲のもとで木彫を学び、師に認められてその姓を継ぎました。


明治23年、東京美術学校(現芸大)の創立と同時に、教授 帝室技芸員となり、以後30余年にわたり後進を指導しました。

明治木彫会の中心として、伝統的木彫の正統を伝えました。
代表作に「老猿」「西郷隆盛像」や「楠公像」などがあります。

詩人・彫刻家の高村光太郎(1883~1956年)は光雲の長男で、大正3年長沼智恵子と結婚と同時に、ここから近くの千駄木5-22-8へ転居しました。


鋳金家の高村岡周(1890~1972年)は、光雲の三男で家督を継ぎました。


昭和8年、東京美術学校教授になり、鋳金家協会を作りその会長になりました。


「島村詩碑」や「鼎による花入」などの作品があり、日本芸術院会員や「人間国宝」に推されました。


また、昭和39年新年御歌会始に召人となりました。
光雲の遺宅跡に昭和33年住宅を新築し、昭和47年に没しました。



柔らかな西日の午後でした。
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