初夏の故郷です。
向こうの山頂に赤旗がたなびいています(ガラケーでは写りません)。
あそこは永納山に違いありません。
旗を立てるそれらしい謂われのある山は付近にありません。
斉明天皇は西暦663年、白村江の戦いに百済の求めに応じて連合軍として戦い、新羅・唐の連合軍に敗れました。
新羅方連合軍の日本への来襲に備え、百済の亡命貴族の指導のもと、西国に「古代山城」を築きました。
その山城が永納山にあったのです。
四国に3ヶ所、愛媛県に1ヶ所しかない貴重な遺構が昭和52年に発見されました。
これはもう行ってこの目で見るっきゃない!
前回は西口から登ったので、今回は東口から行ってみます。
登山道への道路を振り返るとこんな所です。
東側に四国自動車道路が走る急坂を、自転車を押してやって来ました。
例によって、杖を借りて出発します。
深緑の山道を行きます。
暫く行くと案内板がありました。
なるほど、西口からはそれらしい遺構がありませんでしたが、この場所を見るとよく分かります。
明らかに人工の石積みです。
1400年以上前の城跡です。
石垣跡を直進すると行き止まりになっていますが、この方角には医王山があります。
古代山城はこの永納山と医王山とを城郭で連携していたことが分かっています。
山道を行きます。
この辺りには数段になった土垣のようにも見えます。
頂上への道程には矢印があって迷う事はありません。
展望所がありました。
四国自動車道路の向こうに蛇越し池、その遠く向こうに今治市の中心部と瀬戸内海としまなみ海道が霞んでいます。
この話、続きます。
向こうの山頂に赤旗がたなびいています(ガラケーでは写りません)。
あそこは永納山に違いありません。
旗を立てるそれらしい謂われのある山は付近にありません。
斉明天皇は西暦663年、白村江の戦いに百済の求めに応じて連合軍として戦い、新羅・唐の連合軍に敗れました。
新羅方連合軍の日本への来襲に備え、百済の亡命貴族の指導のもと、西国に「古代山城」を築きました。
その山城が永納山にあったのです。
四国に3ヶ所、愛媛県に1ヶ所しかない貴重な遺構が昭和52年に発見されました。
これはもう行ってこの目で見るっきゃない!
前回は西口から登ったので、今回は東口から行ってみます。
登山道への道路を振り返るとこんな所です。
東側に四国自動車道路が走る急坂を、自転車を押してやって来ました。
例によって、杖を借りて出発します。
深緑の山道を行きます。
暫く行くと案内板がありました。
なるほど、西口からはそれらしい遺構がありませんでしたが、この場所を見るとよく分かります。
明らかに人工の石積みです。
1400年以上前の城跡です。
石垣跡を直進すると行き止まりになっていますが、この方角には医王山があります。
古代山城はこの永納山と医王山とを城郭で連携していたことが分かっています。
山道を行きます。
この辺りには数段になった土垣のようにも見えます。
頂上への道程には矢印があって迷う事はありません。
展望所がありました。
四国自動車道路の向こうに蛇越し池、その遠く向こうに今治市の中心部と瀬戸内海としまなみ海道が霞んでいます。
この話、続きます。