荒川三歩

東京下町を自転車で散策しています。

白山神社の紫陽花/2021年

2021年06月02日 | 散文

この季節になるといつも訪れます。紫陽花の名所です。毎年周囲の商店街が「白山紫陽花祭り」を実施して、境内でも屋台を出したり、舞台を設営したりしていますが、コロナ禍によって2年連続の中止です。

 

コロナ禍でも花は咲きます。

 

あの廊下を潜ります。

 

潜ると見えて来ました。

 

紫陽花がいっぱい咲いています。

 

 

 

 

今年も入山禁止です。頂上に祠が在って、大変混雑します。

 

全山紫陽花の花で埋まる名所ですが、今年も残念です。

 

境内を巡ります。

 

 

紫陽花を鑑賞します。

 

 

 

 

ぐるりと廻って拝殿に戻りました。

 

 

 

ここには孫文の石碑があります。

 

辛亥革命後日本に亡命した孫文は、東京のあちこちに石碑が残っています。石碑の前に横たわっている石に腰かけたそうです。孫文もこの紫陽花を観たのでしょうか?

この話、続きます。

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「八百屋お七」の墓再訪

2021年06月02日 | 散文

圓乗寺の正面です。久しぶりです。長い間、ずっと工事をしていました。ずいぶん景色が変わりました。

 

以前は、こちら側にも石碑があって、

 

この石碑の位置に祠が在りました。

 

説明板を読みます。

 

この説明板は有りませんでした。新しく設置したものだと思います。読みます。 「このあたりは昭和三十九年八月一日施行の新住居によって白山の一部となるまでは『指ヶ谷町』と呼ばれていた。 その町名の由来について丙成書上(鳳閣寺支配正宝院)は『町名指谷と相唱候儀、小石川村東の方凡五町程の場所字指谷と古来より申し候間、右唱より町名に相成候儀と奉存候』云々と述べている。しかし、『指ヶ谷』の名の起こりについては不明である。

 

なお、旧指ヶ谷町の東北端に位置したこの南縁山円乗寺は元和六年(1620)宝仙宝印によって開山された天台宗の寺院である。境内には芝居などで有名になった八百屋お七の墓がある。寺小姓の左兵衛という美少年と恋におちいったお七は、吉三郎なる無頼の徒にそそのかされて我家に放火した。放火は未遂に終ったが、すぐ吉三郎と共にとらえられ、天和三年(1683)三月二十九日火刑に処せられた。生年十六であったと伝えられている。 文京区役所・文京区観光協会」 上記説明板の吉三郎とは人物像が少し違います。「諸説あり」ってやつですね。

境内に入って行きます。

 

随分と位置が変わりました。

 

以前は正面に在った本堂が右手に建て替わっています。左手奥にあるのが目的の場所です。

 

この景色は変わっていません。

 

説明板によると、中央の墓石は寺の住職が供養の為に建てたもので、右側のは寛政年間(1789~1801)に、岩井半四郎がお七を演じて好評だったので建立したもので、左側のは近所の有志たちが270回忌の供養で建立したものだそうです。

 

 

 

 

お七の墓から見る、旧指ヶ谷、現白山の街はビルの谷間です。

以前の圓乗寺はこちら

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