「東京スタジアム」って、東京府中に在る現在の多目的スタジアムのことではありません。「毎日オリオンズ」、「大映オリオンズ」、「東京オリオンズ」、「ロッテオリオンズ」がフランチャイズとした通称「東京球場」のことです。現在の「ロッテマリーンズ」の前身球団のフランチャイズ球場です。かつてオリオンズのオーナー企業だった大映の子会社、株式会社東京スタジアムが所有・管理・運営していた野球場です。建設者は竹中工務店です。
都電「荒川区役所前停留場」脇の踏み切りを渡ります。
荒川区の路です。再開発で拡張した路だと思います。
この季節は薔薇が咲く線路脇です。
三ノ輪橋方面にはスカイツリーが望めます。ちょっと風情のある場所です。
「千住間道」との表示がありました。古くからの街道のようです。「荒川総合スポーツセンター」が在りました。
こんなモニュメントがあります。荒川区にしてはオシャレです。
そして、隣が「南千住警察署」です。
ここが目的地ですが、説明板は見当たりません。
警察署の裏には、申し訳のように野球場が在ります。
この警察署とスポーツセンターを中心に、東京スタジアムが在ったようです。
子供のころに、ロッテ製菓が球団を買収したのを覚えています。四国の田舎では、巨人しかニュースになりません。パ・リーグなんて、全球団名を知らなかった時代ですが、東京下町の熱狂的なファンに支持された球団だったようです。
大毎のオーナーであった時の風雲児永田雅一が私財を投じて造りました。大リーグのボールパークのような最先端の設備を有しながら、庶民が下駄履きで気軽に通える球場を造ったそうです。当時の南千住は低い平屋や二階建ての住宅が並ぶ下町で、忽然と現れた巨大なスタジアムから、夜になるとナイター照明が放つ光が周辺に瞬く光景から、「光の球場」とも形容されていました。しかし、一方でナイター終了後に照明が消えると夜蛾が一斉に周辺の民家になだれ込んだため、一種の公害にもなっていたそうです。
裏の野球場へ行ってみます。
スポーツセンターはコロナワクチン接種会場となっていました。
申し訳に造ったような野球場です。旧東京スタジアムは1962年6月2日に竣工して大毎ー南海戦が行われ、球場第1号ホームランは南海の野村克也捕手だったそうです。
1970年にロッテがオリオンズとして10年ぶりにこの球場で優勝を決めたとき、観客やファンがスタンドから次々とグラウンドになだれ込み、選手より先に永田雅一を胴上げし、更に「東京音頭」の歌が夜空にこだましたそうです。これが旧東京スタジアムの最高潮の時でした。
ぐるりと廻ってみます。正面の建物が警察署とスポーツセンターです。ここに在ったのですね。 当時は圧倒的にセ・リーグのファンが多くパ・リーグの集客は低迷しました。開場当初こそ15万枚の入場券を近所に配ったりして、70万人を集客しましたが、1967年の最終戦は、近鉄バッファローズとのダブルヘッダーで、両試合とも観客が200人だったそうです。
1971年夏、日清食品は本球場でカップヌードルの試験販売を行いました。これが関東地区で初めてカップヌードルが販売された場所だそうです。また夏場には旧日本プロレスが本球場で興行を行っており、ジャイアント馬場がアブドーラ・ザ・ブッチャーとシングルマッチ初対戦を行った場所でもあります。私と同年代の方は懐かしい話だと思います。
下町の親父が応援した球場の今の姿です。ついでに、親父が観戦に通った南千住の駅へ行ってみます。