国分寺のすぐ傍です。でも、ここでお遍路さんに逢ったことはありません。せっかくの歩き遍路なのに、ここを素通りしたら勿体ないと思います。
石段を上ります。
上がった所に拝殿が在ります。
右手に説明書が有ります。(説明板表示内容)
「脇屋義助公廟堂の由来
延元元年(1336)五月、楠正成、新田義貞らの連合軍を摂津の国湊川に打ち破った足利軍は、戦勝の余勢をかって、京都に攻め入った。
同年六月、京都の東寺に入った尊氏は、持明院党の公明天皇を皇位につけて政権の合法化をはかり、後醍醐天皇を洛中の花山院に幽閉して、北朝中心の体制をかためた。
そこで、天皇は密かに花山院を脱出し、大和国吉野に潜幸して吉野朝廷をひらいた。
そして尊氏追討の綸旨が諸国の武将に発せられた。
ここに尊氏が樹立した京都の北朝(公明天皇)と吉野の南朝(後醍醐天皇)両皇統が並び立ち、諸国の武士は南北の二派にわかれて、熾烈な抗争が各地で展開された。
しかし戦況は南朝方に不利に展開、新田義貞、北畠顕家などの有力武士が相次いで討死、後醍醐天皇も崩御されたので、南朝方の勢力は急速に衰えていった。
そこで、後村上天皇は失った勢力を西国で回復すべく、新田義貞の弟脇屋義助を南軍の総帥として伊予にくだした。
興国三年(1342)五月、義助の一行は、塩飽水軍(佐々木信胤)の船団に護送されて、今張(筆者注:今治の語源で「いまはる」と読みます)の浦に到着した。
しかし義助は不運にも、その直後に病に斃れ、国分寺に急逝した。享年は三十八歳であった。
この報を受けた阿波の守護細川頼春は儀助の死を好機とみて、総勢七千の大軍を率いて伊予に侵入、南朝方が最後の砦とたのむ世田・笠松城を七方から包囲した。
熾烈な攻防四十有余日。南朝方は衆寡敵せず、ついに世田城は落ち、大館氏明ら十七士は山中で壮烈な自刃を遂げた。
現在の義助公の廟堂は寛文九年(1669)今治藩士町野政貞らが再建したものである。
また廟堂の脇には、今治藩の儒学者佐伯惟忠が建てた表忠碑があり、貝原益軒の讃文を刻んでいる。
今治市教育委員会」
ここが墓です。拝殿の真裏です。
こんなのが墓前に供えられていました。大河ドラマか何かで、脇屋義助を演じた役者だと思います。
手を合わせます。遠く鎌倉時代末期の人です。