6/9~11と日本基督教団若松栄町教会で行われた「第4回解放全国活動者会議in会津」に、夫と共に参加して参りました。
会津には中学生くらいの時に家族旅行で行ったことがあり、今回2回目になります。初めての土地へ行く時には、必ず事前に見学できそうな教会がないかどうか調べてから行くことにしていて、今回も早めに行って教会を見ようと思っていたのですが、雨のため高速バスの到着が遅れ、お昼を食べるだけで精一杯になってしまいましたが、花巻と会津は同じ東北でも決して近くはありません。昼食を食べて開会まで30分ほどしか残り時間がないというのにダッシュで教会を見て会場へという暴挙に出ましたオットもいざという時の私の足の速さに驚いたようです
幸いカトリック会津若松教会は、若松栄町教会の割とすぐ近くでした。汗だくで辿り着いた時、まるで私たちを待っていてくれたかのように扉が開いていて、本当に嬉しく思いました。
ここの教会もまた、伊藤龍也『古教会への誘い』で知りましたが、聖堂内は思っていたより広かったです。写真集では聖堂内は畳敷きでしたが、今は畳の上にパイプ椅子が置かれているようです。地元のカトリック鶴岡教会でも同じように畳にパイプ椅子でした。畳であっても正座の辛い高齢者に配慮して椅子を置く教会が増えているのかもしれません。明るい光に満ち溢れた聖堂で、元気と優しい心をもらいました。
こちらが日本基督教団若松栄町教会。野口英世が若き日にここで洗礼を受けており、教会内に彼の名前が記された信徒人名簿が展示されています。また、別冊太陽「日本の教会をたずねて」にもここの教会が掲載されています。なので、実はこの教会を訪れることも今回の大きな楽しみの一つでした。そして訪れるだけでなく、そこで懐かしい方々と再会したり、新たな出会いがあったり・・・やはり教会は建物だけではなく、そこに「人」がいることが大事なのだとつくづく思わされます。
(ちなみに余談ですが、野口英世は最初、先のカトリック会津若松教会の方へ通っていたのだそうです。しかし初恋の女性に付きまとって神父様に叱られたため、こちらの若松栄町教会へ移ったのだとか…知らなかった~!)
会議には180人ほどもの人が来ていたでしょうか。差別のこと、原発のこと、様々な立場の方がご自分の経験をお話くださいました。とりわけ原発事故に関しては、未だに収束などしていないこと、正しい情報が知らされず人々の間に深刻な分裂がもたらされていることに非常に胸が痛みました。今回の学びを通して、原発は誰かの健康や生命を犠牲にして成り立っているものなのだということが自分の中ではっきりしました。そして、東北へ戻って来るまで原発のことに全く無関心だった自分を心から恥ずかしく思いました。
私はかつて中高一貫校の国語の教員をしていたことがあります。ある時中学校で戦争についての話を取り扱った際、こんな感想を書いてきた生徒がいました。
「世の中には様々な考えの人がいると思うけれど、みんなが同じでなくてはいけないこともあると思います。」
この「みんなが同じでなくてはいけないこと」とは何か、それは神様から与えられた命は自分のものであっても他人のものであっても大事にしなければならない、ということに他ならないと私は思います。この認識に立てば、様々な差別に対しても、原発に対しても、おのずと人間の取るべき行動は決まってくるのではないでしょうか。そして、教会という場所は、そのことを世の中に向かって力強く伝えていく場所であると思うのです。私は先の生徒の言葉を生涯忘れることはないでしょう。
私は2日目の午後で失礼してしまったのですが、3日目にはフィールドワークもありました。その中でキリシタン塚に行くということでしたので、夫にカメラを預けて写真を撮っておいてもらいました。
1635(寛永12)年、会津藩主加藤明成がキリシタン弾圧に乗り出し、横沢丹波とその一族、丹波の家に匿われていた宣教師が捕らえられ、処刑されました。その殉教の跡地に、先のカトリック会津若松教会によって建てられたのがこのキリシタン塚だそうです。夫の話では、会津若松教会の神父様が今回の会議に参加されていて、この時キリシタン塚の前でお祈りをして下さったとのことでした。キリシタン塚の手前には「涙橋」という、処刑される者たちが知人たちとの別れを惜しんだとされる橋があり、聞くだけで心の痛む話です。またいつか、蒲生氏郷ゆかりの地もゆっくりと巡ってみたいと思います。
今回このような貴重な学びの場を与えられたことを心から感謝しています。震災及び原発事故から3年3ヶ月、未だ困難を覚える多くの方がいることを決して忘れず、祈り続けてゆきたいと思います。