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新春放談 - 北野廃寺

2021-01-01 18:11:56 | みんなの花図鑑

碧海台地の南東縁、矢作川の右岸に位置する北野廃寺跡は、飛鳥時代の7世紀後半に建立されたとされる寺院の遺跡です。文字の記録がなく正式な寺号も不明なので、所在地から「北野廃寺」と呼ばれていますが、北野では古くから「むかしここに大きな寺があり、兵火にかかり焼失した」と伝えられてきました。



遺構から、寺は、塔、金堂、講堂、中門、南大門、僧坊が南北一直線に並ぶ、飛鳥時代後期の四天王寺式の壮大な建築であったことがわかります。

〔参考〕四天王寺式伽藍配置

(四天王寺式とは - コトバンクより)


(四天王寺ホームページより)

聖徳太子が建立した法隆寺が7世紀初めの創建で、現存する一番古い建物が7世紀末から8世紀初めなので、
この北野廃寺は都から遠く離れていたものの、ほぼ同じ時期に建立された古い歴史があることになります。

空想に想像を重ねますが、もしかしたら四天王寺を建立した宮大工が来ていたのかも知れません。当時のことだから舟で大和川を下り紀伊水道を通って三河湾から矢作川を昇ってきたとか (^^♪





半地下式に据えられた心礎に刳り込まれた心柱の直径などから、塔の高さは 奈良法隆寺の五重塔(31.5m)に近い規模に及んだと推定されています。

〔参考〕五重塔と心柱

ちなみに、五重塔の心柱は塔の構造には直接関わってはおらず、心柱は一番上の相輪(ストゥーパが起源)を支えているに過ぎないそうです。
そして、五重塔はこれまで地震で倒壊した例はないといいます。が、何故倒壊しないのか?についてはまだ完全には判っていないようです。(五重塔の謎)


〔参考〕現在の四天王寺

(中世歴史巡めぐり~四天王寺より)
一方で、 塔が法隆寺五重塔に匹敵する大きさなのに、金堂のほうは比較的小規模なことについては、「釈迦を供養する塔中心の初期仏教思想のあらわれであろうか」(岡崎市の立てた説明板より)と推定しています。




一番北の僧坊跡です。(礎石が 荒海に浮かぶ小島のようだと思いました。)

都から遠いこの三河の地に 四天王寺様式の壮大な寺院を建立したのは 物部守屋の次男、物部真福(まさち)といわれています。かれは 三河の国造で、矢作川対岸の岩津の地にも真福寺(しんぷくじ)を建立しています。(「真福」が建てたから「真福」寺 (^^)/)
真福寺のほうは、正確には、真福寺のこの地において 病から人々を救うという霊験あらたかな泉を見つけ、この泉の水を守り伝えたいと思い、寺の建立を聖徳太子に願い出て許可されたといわれています。




「あれ?歴史の授業では物部守屋って廃仏派だったのでは?」と思うでしょう。そうです、蘇我氏vs物部氏の争いは そんな単純な図式にあてはめれるようなものではなかったらしいのです。物部守屋は聖徳太子に攻められた本拠地大阪渋川でも「渋川廃寺」を建てていました。(https://4travel.jp/> 国内 > 東海地方 > 愛知県 > 岡崎 > 岡崎 旅行記 > 古代寺院ツアー-北野廃寺、真福寺、三河国分寺・尼寺・天平の里資料館-)

案の定でした・・・
聖徳太子も、明治クーデターも・・・
歴史とは勝者の創った物語なんですねぇ


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