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岡崎平野を中心とする 植物 と カメラの対話

どんど焼き - 三河地震

2021-01-02 21:13:04 | みんなの花図鑑
以下の写真は、ちょうど5年前の1月3日に撮ったものです。場所は 前回の「北野廃寺」のある 岡崎市の北野学区です。


どんど焼き用の竹が組んでありました。
どんど焼きでは、各家庭の正月飾りや子どもたちの書き初め、お守りやだるまなどを焼いてもらうことができます。
普通に処分するのはちょっと…と、気が引けてしまうものは、どんど焼きが最適です。



さて、どんど焼きの広場に こんな藁小屋がありました。何だろう?


説明板がありました。

それでちょっと 三河地震のこと、調べてみました。

三河地震は、1945年1月13日に、愛知県の三河湾で発生したマグニチュード6.8の直下型地震です。 1945年の終戦前後にかけて4年連続で1,000人を超える死者を出した4大地震(鳥取地震、東南海地震、南海地震)の一つでもあります。(wiki「三河地震」)
私も子供のころはよく親や先輩たちから 三河地震の話はよく聞きました。

「三河地震」は死者数2,000人あまりという、20世紀に日本で起きた地震のなかで6番目に多くの被害者を出しました。なぜ、被害が大きくなったのでしょうか。
三河地震発生の37日前、1944年12月7日には「東南海地震」があり、西三河も広い範囲で震度6以上のゆれにみまわれています。東南海地震が起きたとき、日本は戦争中で、救助や復旧工事でたよりになる男の人の多くは、戦地に駆り出されていませんでした。また、壊れかけた家を補強するための木材やくぎといった材料も戦時下のため欠乏していました。
1944年12月の東南海地震「により、多くの家屋が被害を受けたが、戦時中だったこともあり、ほとんどの家では家屋を修理することなくそのまま住み続けたという。例えば梁を柱に通す「ほぞ」の部分が、ほとんど折れていたという証言も見られるが、地域に住んでいる大工は少なく、すぐには修理することができなかった(木村・林、2006)。そのような状況の中で三河地震が発生して、もとの強度に較べて弱くなっていた家が倒壊してしまったとも考えられる。」(第4章 三河地震の災害の概要)
多くの死者を出した原因は、上記のように、東南海地震により強度が低下した家屋が補強されないまま 三河地震により倒壊したことによる圧死者の比率が多かったためと考えられています。



図6-3 中部日本新聞(12月10日)~震災の教訓を防空に活かせ~




(↑ 写真は 記事とは無関係です)

発光現象 一地表からの稲光一
三河地震における特徴のひとつに、発光現象がある。
こうした事例は報告例が少なく、そのメカニズムは未だ解明されていない(林能成2005)。
聞き取り調査でも、本震と余震の際に発光現象があらわれていたことが、複数の人物から語られている。
また、前述の「震災ニ全家屋ノ倒壊」(p.20【33】)でも、「四方二輝ク大雷光ト供ニ」「余リノ明ルサニ、コハ大火山ノ噴出ナラムト怖レッ見レバ⋯⋯」と記されている。
(企画展「三河地震」パンフより)


(↑ 写真は 記事とは無関係です)
この傾向を探るとすれば、現在の西尾市街地周辺を境界にして、東側は「全体が光った」という意見が多く、西側ではいずれかの方向が光ったと感じていると解釈できる。つまり、いずれかの点が光ったのではなく、境界の東側が全体的に光ったと考えられないだろうか。
(同上)


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