アプリケーション・ソフトのメニュには、論理型と感覚型がある。
いずれか一方というのではもちろんないのだが、どちらかと言えばぐらいの見方をすると、そんなことが言えそうである。
元来論理型で作られていたコンピューターのソフトウェアも、感覚型用法に向かっているように思う。
その反対に、もともと感覚型であったはずの芸術鑑賞、言語理解などがひちくどい論理型になってきているようにも思える。
こういう適用の逆転は何なのだろう。
ちょっと視点を変えてみるぐらいのことを、逆転の発想などと大仰に言い立てられると、発想以後にまでそれを引きずる。
なんでも逆にやるのが新しいのだ、よい方法なのだと、思考様式も適用形式も逆転する。そして逆転文化祭の始まりとなる。
殿様のお膳のように、魚の表裏をひっくり返しただけでお代わりですと言うような、機転の逆転でものごとすべてを片づけるわけにはいかない。
放射能に汚れた校庭も、表土を沈めただけでは、すっかり除染されるはずがないのである。
昨日は、逆転相撲で日馬富士が綱取りの苦しさを増す一番があった。
初日は逆転で勝ち、二日目は逆転で敗れる。白鵬がいみじくも言った「なれる者」の坐に、腰を据えられるまでにはなかなか大変そうである。
ソフトウエアの基本様式も、逆転型改変に明け暮れてていると、何十年かで築きあげた王者の坐を、明け渡さなければならない日を迎えることになるかもしれない。