あも&サチアキの交換日記

どうやら交換日記が続いているようです(祝何年目?

もにゃもにゃもにゃ〜〜〜〜ん

2022-09-08 | from:sachiaki
呪詛を抱え込んでいける強さが祝福となるのだ。

なーんてかっこいいことを書いてみただけのsachiakiです。

「メイドインアビス」を見ていても、
「ベルセルク」を見ていても、
「人間の土地」を読んでみても、
どんなに困難なことがあっても、
犠牲者の数に足がすくみそうになって
その向こう側へと進もうとする人には
呪詛の言葉が付き纏い
その罪の重さに潰されることなく
ただただ前に進もうとする力が
桁違いなんだろうなぁ
なんてこを考えていたところです。
なので「進撃の巨人」なんて
そのまんま過ぎて気づかなかったわ!
って思ったりもするんだけど
生きるっていうのは前進し続けることで
それは犠牲とは切っても切れない輪なのだなぁ
なんて考えていました。

宮沢賢治の「よだかの星」みたいに
  僕はもう虫をたべないで餓えて死のう。
って気持ちに一年に3回ぐらい思うことがあるけれど
でもやっぱ死んだらダメだと思うんですよね。
それは今までの犠牲をともなってきて
それらが自分を生かしてくれたのに
裏切る行為になってしまうじゃないですか。
まぁこの考え方の延長上には
「ベルセルク」のグリフィスの決断へと繋がるので
その信念や夢は捨てられないのか?
みたいなことも問わないとならないんだけど
それでもきっと死ぬことを自ら選ぶよりは
マシなのでは?と思うんですよね。

とはいえ、これも今は「生き延びることが最善」という
価値観にシフトしているからなんですけれど、
「生き延びることよりも大事なことがある」
っていう価値観も当然あると思っています。

まぁなんにしても、生きるということは一筋縄ではいきません。
よくTwitterで出てくる「こちら亀有派出所前」の1ページのように
「生きる」と「死ぬ」の選択肢しか感じられなくなった時こそ
「死ぬ」という選択肢をいったん保留にして
「生きる」の中からどんな生き方をするか選択できると良いですよね。


そんなことをつらつらと考えていました。
と、今日は全然お仕事できてなかったので
少しでも進めてきますのでこの辺にて!モイモイ
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個人でいることと集団でいることの違い

2022-09-08 | from:sachiaki
いつの時代もどこに軸足を持つかで
立場やらその人の居場所やらが変わってしまい
少数派は涙するしかないのだなぁ……なんてことを考えていたsachiakiです。

私の話ではなく、知り合いの方が肌が弱くてマスクが付けられず
かなりこのご時世で苦労をしているんですわ。
そしてそういった弱い立場に立つ側となると
どうしても逆サイドに走りがちというか
「そもそもマスクなんていらないじゃん!」
っていう極端なことを言い出し
マスクをしている人たちを嘲笑ったりしている姿を見ていると
なんともシンドイ気持ちになったりします。
あなたがマスクが付けられないことと
マスクがそもそも必要ないということは
同じ線上の話じゃないんじゃよ……ってこと。
マスクはつけられないけれど、世の中的には必要である。
それもまた一つの世界の受け止め方なのよね。
もしかすると必要がないっていうのも真なのかもしれないけれど、
それが確定されているわけではない世情では
やはり従わざるを得ない社会的ルールであることも実情なわけで。

漫画「もやしもん」の中でも
「マスクがウィルスを防ぐんじゃないのよ」
「マスクでこもった口の湿気が乾燥好きのウィルスを
 ちょっと足止めするの」と長谷川先輩が言っていて、
そんな長谷川さんは医療用の密閉度の高いフィルタマスクをしていました。
ちなみにインフルエンザ等のウィルスに対して効果的と言われているのは
口の中を乾燥させないことということで
20分に一回は水を飲み、口の中にいる雑菌たちとともに
胃液の海に押し流すことだと聞いています。
新型コロナウィルスでもそれが有効なのかはわかりませんが
いずれにしても人体にとって水は必須なアイテムなので
なるべくこまめな水分補給はしておいた方が良いと思われます。

と、話はそれてしまいましたが
人の営みにとって、個人の裁量で捌ける権限と
個人を超えたところにある権限ってものがあって
個人同士のやりとりではOKでも
集団としてはNGというようなことが時折おこります。
それがひいては戦争などという最も大きな悲劇にたどり着くこともあるのは
なんとなく思うところありなんじゃないでしょうか。

というわけで個人のやりとりでできる裁量を超えた時、
どうしても足切りをされる人たちというものが出てきてしまい
できるだけその足切りする人数は少ないに越したことはないものの
そういった犠牲が出るのは間違いないわけで
こういった問題を見るたびに
邪悪な「トロッコ問題」なんて言葉が頭をよぎるわけです。

私も損切りとしてトカゲの尻尾みたいにやられたら
やっぱりいい気持ちはしないし、
世の中に対して呪いの一つでもかけたくなると思います。

そういう意味でも現在放送中の「メイドインアビス」で
全滅か犠牲を許すか、という選択の中
一番救える数を大きくした結果、
たった一人を恐ろしい目に合わせるという図が出来上がり
その恨みが救われた人たちに返ってくるというのは
なんともいえない苦い気持ちになったりもします。
本当にもぅ、「正しい」というものがないと気づくと
これほど世の中の問題が厄介で
どうにもならないことが山ほどあるんだなぁ
なんてことを何度も痛感するわけです。

「犠牲になってくれ」という言葉を吐かなくてはならない
責任者の荷物の重さのことも思うと
マジでしんどいだろうなぁ、手放したいだろうなぁ。
って思ったりもします。
それで犠牲になることを承知してくれる人の
重たい覚悟のことを思うと
これまたなんとも言えない、胃酸が込み上げる気持ちになりもします。
世の中がままならないことぐらい分かっているけれど、
それでも頑張ってる人ぐらい報われても良いじゃないか
ってことを思ったりしてしまうわけですわね。

そういやアニメ「マギ」でも過ちの原因が誰よりも正しく
国を豊かに安定していこうと頑張っていた学院長(モガメット)の最後に
ボロ泣きしたんだよなぁ。
たしかに誰かを泣かせてきた(国民の中で階級を作って殺戮してきた)けれど
それは大きな人数を救うためだったし
他にもやり方はあったのかもしれないけれど
そんな悠長なことを言えるほど世の中が甘くないことも確かで
そのことがひどく悲しく感じたものです。

同じようなものでは漫画の「ファイブスター物語」でも
自分達の住んでいる星の寿命がもうすぐそこに迫っていて
どうにかして他の星団に移民をさせたいけれど
それでもあまりに多い人口を抱えているばかりに
移民すらも叶わないと答えにいたった国王が
他の国に戦争を仕掛け、とにかく戦争を長引かせ
少しでも自国の民が他の民と交わっていくことにしか
活路を見出せなかった話もあり、
それも本当に可哀想だった。
自分がやっていることの愚かさを知りつつも
それでもそれしか道のない苦しさは
一般人には計り知れないものがあるんだろうな
なんてことを思ったりするのです。

そんなことをツラツラ考えつつ
正義論的なことも思い返して
世の中はなんて残酷なんだろうなぁ
なんてため息をついたところでした。

そんな感じ。
とりあえず本日もWebラジオを収録してまいりました。
近々またアップされると思います。
よろしくですよー!モイモイ。
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