放送大学で勉強することを決めて
一番最初に選んだ授業の一つが
社会心理学だったんですけれど、
結びの授業が「それでも人は,楽天的な方がいい」を
取り上げていてひどく感銘を受けたsachiakiです。
ポジティブイリュージョンといわれるものですが
”実在する存在や物事を、自分に都合よく解釈したり
想像したりする精神的イメージや概念”
と定義されているそうなので
それっていいことじゃないじゃんって思われるかもだけど、
私は世の中って探さなくても
目の前に入ることってだいたい嫌なことの方が多くって
ロクなもんじゃないなってなりがちなんですよね。
しっかりと物事を把握しようとすればするほど
ウンザリすることばかり。
だからこそ鬱を持っている人の目線っていうのは
現実を直視し過ぎていると思ったりするんです。
直視し過ぎてしまうと良いと思われるものでさえ
その裏側にある汚い事実に辿り着いて
ガッカリするなんてことになりがちなのかなと。
例えば美しい舞台装置も、
その裏側には汗水垂らして小汚くなっているスタッフさんがいて
そのことに気づいてしまうと興醒めしちゃう
なんていうことがあったりしますよね。
世界一有名なネズミの夢の国だって
その夢から覚めないように、
たくさんの工夫がされてますし。
でさ、裏側を知って「どうせ人の力じゃん」って
嘲って笑って楽しまないでいる人と
「中に人なんていませーん」って言って
全力で没頭する人と
どちらが生きやすいかといえば後者なんですよね。
人にバカだの間抜けだの言われていたとしても
ニコニコ笑って生きていける方が
たぶん幸せなんだと思います。
(もちろん、人に向かってバカだの間抜けだのというような
低俗な人間など毎日ガムを踏むような
些細な不幸にあってもらいたい
なんていう願いもほんのりとあります
まぁ、これも低俗な願いではあるけれど)
昨日友人のポストを見かけた時に
けっこうキツイことを書いていて
一見正義な内容だったのだけど
それって真綿で自分のことを苦しめていると思うなぁ
なんてことを思ったりしたり。
「うしろめたさの人類学」って本があるんだけど、
その中には「うしろめたい気持ち」について
それは人と人との距離を調整するもの
みたいな感じに書いてあって
それがひいては優しさに転じる、ってあったんですよね。
(すごくうろ覚えだけど)
私たちは完璧じゃないし、
環境や時代によって色んな違いがあるし、
そういった時に自分を律して生きていくのは
とても大切なことでもあるけれど、
それと同じくらい楽観的になるっていうのも
大事なんじゃないかな〜って。
そしてその楽観的になれる一つの目安として
「うしろめたい」なにかがあると
人っていうのは寛容を身につけていくのかな〜って。
別の国では今戦争が起きていて
食べるものなどに不自由をしているのに
自分はこの食材が気に入らないと言って
破棄しようとしている、
そういうためらいが恥ずかしさに変わり、
恥ずかしさを悪く言えばごまかすために
ほんの少しだけ人に優しくできる
そういうことってあると思うの。
そしてそういった自分を受け入れると
他人の「うしろめたさ」にも仲間のような連帯が生まれ
楽観的な気持ちになる……んじゃないかな〜
なんてことを思ったりします。
とにかくウンザリすることが世の中には多過ぎて
目覚めてから初めて読む記事で
良いニュースがあったことなんて
ここしばらくないなって思い
気持ちがズ〜ンと沈みがちなんだけれど
それでも自分の身の周りを見回して
幸せであることを噛み締めるのです。
そして噛み締めた分をほんの少しずつでも
還元していけたら良いなって考えていました。
暖かい気持ちとかって伝播していくので
そういう暖かさを大切にしたいなと思います。
と、クソ長い日記になってしまったのでこの辺にて。
それではまた。モイモイ
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