現代児童文学

国内外の現代児童文学史や現代児童文学論についての考察や論文及び作品論や創作や参考文献を、できれば毎日記載します。

イタロ・カルヴィーノ「おかずいれ」マルコヴァルドさんの四季所収

2018-04-28 11:16:15 | 作品論
 マルコヴァルドさんと裕福な家の男の子がお昼のおかずを交換する話です。
 マルコヴァルドさんは安いソーセージに、男の子は高級食材(香料と豚の脳みそが入ったソーセージです)のフライに飽き飽きしていました。
 この交換は二人に大きな満足を与えます。
 でも、理解のない家政婦の乱入でだいなしになってしまいます。
 家政婦に投げ捨てられて歪んでしまったマルコヴァルドさんのおかずいれが、二人の悲しみを象徴しています。

<table border="0" cellspacing="0" cellpadding="0" class="amazon-aff">マルコヴァルドさんの四季 (岩波少年文庫)クリエーター情報なし岩波書店
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朽木祥「雛の顔」八月の光所収

2018-04-28 08:49:36 | 作品論
 2012年7月に出た戦争児童文学です。
 霊感の強い個性的な母親を娘の視点で見ていて、冒頭はなかなか面白かったです。
 また、文章も描写も非常にうまく、期待を持って読み進めました。
 しかし、原爆が投下されたあたりから、その設定が全く生かされなくなり、いわゆる「原爆体験物語」風になってしまいました。
 このあたりは、すでにいろいろな作品や記録で読んだことがあり、既視感を持たざるを得ませんでした。
 児童文学作家の那須正幹は1989年に、児童文学研究者で翻訳家の神宮輝夫との対談(現代児童文学作家対談5所収)で、戦争児童文学について以下のように述べています。
「いままでの戦争児童文学というのは、つねに自分たちの体験を伝えているわけです。それは大人の世界のことであって、いまの子どもたちからみれば、四十年まえにあった戦争なわけです。作品に描かれる世界は悲惨ですから、読者は読むときには泣きますよ。ところが、読んだあと、ああ私たちは戦争のなかった日本に生まれてよかったなで終わってしまう。ぼくは戦争を伝える文学として、それじゃ少しおかしいんじゃないかと思います。いまの子どもが、ひょっとしたらいまの日本だっていつ戦争になるかわからないんだという、一種の認識というか、核のボタンがいつ押されるかわからないんだということを認識するような作品を書かなくちゃならないんじゃないかという思いがあるわけです。」
 この対談が行われてから、さらに三十年の時間が流れ、被爆体験はさらに過去のものになり、朽木のこの作品のような二次創作で後世に伝えていくことにも意味はあると思います。
 しかし、問題は書き方で、朽木のこの作品も那須の指摘する問題を抱えている気がします。
 朽木は被爆二世とのことですから、その立場での経験をもっと生かした書き方をした方がいいのではと思いました。
 そして、新しく戦争児童文学を出すのならば、読書をしている間に読者に悲惨な事件を疑似経験させるのにとどまらずに、核兵器や放射能汚染の脅威が現代の問題でもあることを読者に考えさせる工夫が、特に福島の原発事故や北朝鮮の核実験の後では必要だと思います。
 そういう意味では、別の記事で紹介したアーサー・ビナードの「さがしています」のようなアプローチの方が有効だと思います。

八月の光
クリエーター情報なし
偕成社
コメント (2)
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