前の年に亡くなった母(この作品が書かれたのは2006年なので亡くなったのは2005年)の記憶について書かれたノンフィクションタッチの作品ですが、「父、断章」よりもさらに小説的脚色がされています。
また、母の記憶というよりは、家族の記憶に重きが置かれています。
辻原にとっての母とは、父親のような乗り越えるべき障壁ではなく、幼少のころの家族全体の象徴なのでしょう。
これは、大半の男の子たちにとっても同様だと思います。
作品は、家族旅行とその背景にある両親の夫婦としての危機(それは辻原や弟を含めた家族全体の危機でもあります)が描かれています。
汽車の石炭粒を目に入れてしまい苦しむ辻原の様子が、この家族旅行の危うさと苦さを象徴しています。
母に棄てられた夢を見て泣き、その涙であれほど取れなかった石炭粒が取れます。
そのなおった目で見た、母が深夜に素裸で人魚のように川を泳ぐ美しいラストシーンは、家族の和解と危機からの脱出を象徴していて鮮やかです。
現代の子どもたちは、辻原の幼少時代よりもさらに家庭の崩壊の危機にさらされています。
私の息子たちはすでに成人していますが、彼らの世代でさえ家庭崩壊に苦しむ友達がたくさんいました。
現在では、その状況はさらに深刻さを増しています。
そういった子どもたちの力になるような作品が生み出されない現在の児童文学の出版状況には、私自身の非力さも含めて忸怩たる思いがしています。
また、母の記憶というよりは、家族の記憶に重きが置かれています。
辻原にとっての母とは、父親のような乗り越えるべき障壁ではなく、幼少のころの家族全体の象徴なのでしょう。
これは、大半の男の子たちにとっても同様だと思います。
作品は、家族旅行とその背景にある両親の夫婦としての危機(それは辻原や弟を含めた家族全体の危機でもあります)が描かれています。
汽車の石炭粒を目に入れてしまい苦しむ辻原の様子が、この家族旅行の危うさと苦さを象徴しています。
母に棄てられた夢を見て泣き、その涙であれほど取れなかった石炭粒が取れます。
そのなおった目で見た、母が深夜に素裸で人魚のように川を泳ぐ美しいラストシーンは、家族の和解と危機からの脱出を象徴していて鮮やかです。
現代の子どもたちは、辻原の幼少時代よりもさらに家庭の崩壊の危機にさらされています。
私の息子たちはすでに成人していますが、彼らの世代でさえ家庭崩壊に苦しむ友達がたくさんいました。
現在では、その状況はさらに深刻さを増しています。
そういった子どもたちの力になるような作品が生み出されない現在の児童文学の出版状況には、私自身の非力さも含めて忸怩たる思いがしています。
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