現代児童文学

国内外の現代児童文学史や現代児童文学論についての考察や論文及び作品論や創作や参考文献を、できれば毎日記載します。

リスカ

2020-11-05 15:01:06 | 作品

 康平は小学五年生。中学二年生の姉の秀香がいる。
その秀香が、最近不登校になっていた。クラスの雰囲気になじめなくて、学校へ行きたくなくなってしまったのだ。
秀香は中学生になってから、部活でバレーボール部に入っていた。一年のころはけっこう熱心に部活の練習をやっていた。
でも、先輩との関係がうまくいかなくなって、二年になってから部活を辞めてしまった。それも、不登校になった原因の一つかもしれない。
秀香は不登校といっても、自分の部屋に引きこもっているわけではない。外出こそできないが、家の中では自由に行動していた。居間でテレビを見たり、スマホをいじったりしている。
家族とは普通に話をするし、友だちともLINEでやりとりしているので、完全に孤独になっているわけでもない。
初めは、秀香は、学校に行ったり行かなかったりといった具合だった。それが、今ではぜんぜん行かなくなってしまった。
 おかあさんは、学校や教育委員会に行って、秀香の不登校のことを相談していた。
「私の育て方が間違っていたのかしら?」
 おかあさんは、さかんにおとうさんに愚痴をこぼしている。
康平の家では、おとうさんだけではなく、おかあさんもフルタイムで働いている。康平は、低学年のころは、学校が終わると学童クラブへ行っていた。秀香も、小学生の時は同じ学童クラブにいた。
もっと小さい時は、二人とも保育園に預けられていた。
おかあさんは、二人が小さい時に、自分が家にいて育てなかったことを、今になって悔やんでいるのだ。
最近は、秀香とおかあさんは、学校に行くか行かないかで、毎日のようにけんかをしている。
そして、いつも最後には、おかあさんが泣き出して、秀香が自分の部屋へ逃げ込む。これは最近の決まりの行動だった。ある日、いつものけんかの後で、秀香が自分の部屋ではなく風呂場にこもってしまった。
「大丈夫?」
あまり出てこないので、おかあさんが心配して風呂場をのぞいた。
「どうしたの?」
秀香が、風呂場に倒れている。
「キャーッ!」
おかあさんは大声で叫んだ。浴槽の中が血だらけになっていた。秀香が、発作的に風呂場で手首を切ったのだ。カッターナイフで左手首を切っていた。
秀香は、ぐったりとして目を閉じている。
「しっかりしてえ!」
あわてておかあさんが、秀香の腕をタオルで縛って止血をした。タオルはすぐに真っ赤になった。
「康平、救急車!」
おかあさんが叫んだ。
「はい」
康平が急いで119に電話をした。
「119です。どうしました?」
「大変です。けが人が…。すぐに、すぐに来てください」
康平は、あわてて救急車を呼んだ。

 かつては手首自傷症候群として重大視されていたリストカットが、現代では「リスカ」として、気晴らし食いやセックスやダイエットやピアスとおなじくらい普通の若者(特に女性)の普通の振る舞いになってしまっている。
 「リスカ」には軽い「解離」が起こっている場合が多く、血を見て初めてハッとして、生の実感を持つようだ。
 それだけ、現代の若い女性たちにとっては、生きる希望が見いだせない状況なのだろう。
 彼女たちは、リストカットは死にたいからするのではなく、生きたいからするのだ。
 現実が生きづらくて解離した状態から、リストカットで血を見てまた現実に復帰する事を繰り返しているのである。
 従来から、結婚して主婦になるということは、男性への<従属>に向けて彼女たちの<主体化>を要求されることだった。
 その場合に、女性たちには、子どもを産み育てる<再生産する身体>と、夫専属の娼婦のような<性的身体>の二重の役割が求められていた。
 そして、そこから離脱するためには、<生産する身体>としての労働者になるしかなかった。
 しかし、職場においても、女性としての役割しか求められていなかった。
 現代においても、夫のドメスティック・バイオレンスや職場などでのセクシャル・ハラスメントの問題は解決していない。
 特に、1990年代のバブル崩壊以降は、格差社会化が進行し、特に若い女性たちは、非正規労働、貧困、風俗などによる性的搾取、非婚化などによって、ますます生きづらくなっている。
 そして、本来は社会のひずみのせいであるのに、あたかも自己責任であるかのように問われて、彼女たちは益々内部で引き裂かれている。
 そんな状況では、血を見ることによって自分の「生」を確認する「リスカ」は、ますます増加することだろう。

幸い傷が浅かったので、秀香は入院もしないで、すぐに家に帰ってきた。
でも、左手首には白い包帯がまかれている。
おかあさんによると、医者からリストカットは癖になりやすいといわれたらしい。傷が深かったり、発見が遅かったりすると致命傷になるかもしれないので、おかあさんはびくびくしている。
両親は、しばらく秀香の不登校を、黙って見守ることにした。
康平には、秀香に何もしてあげることができない。
リストカット以来、秀香は部屋に引きこもったまま出てこなくなってしまった。
(部屋で何をしているのだろう?)
ある日、康平は思い切って秀香の部屋にいってみた。
 トントン。
 ドアをノックした。
「誰?」
「ぼく」
「鍵がかかっていないから、入っていいわよ」
意外にも、秀香はあっさりと部屋の中に入れてくれた。
秀香は、もう左手首に包帯を巻いていなかった。
「ほら」
康平は、秀香に左手首の傷を見せられた。白い細い線になっていた。
「もうこんな馬鹿なことやらないから、心配しないで」
 秀香は、笑いながらいっていた。
 耕平は、それを聞いて少しだけ安心した。

     

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