また朝が来た。
芳樹は、やっぱりいつものように気分がすぐれなかった。胸がむかむかして、とても起き上がれない感じだった。今日も学校には行かれそうにない。
芳樹はベッドの中で、いつまでもぐずぐずしていた。
その時、ドアを控えめにノックする音がした。
「なに?」
芳樹がベッドの中から返事をすると、
「よっちゃん、ちょっといいかな」
とうさんの声がした。
(えっ?)
枕もとの目覚まし時計を見た。もう七時半を過ぎている。いつもなら、とうさんはとっくに会社にでかけている時刻だ。
「うん、なんだよ」
芳樹は、いつものように不機嫌な声を出してみせた。
「今日は熊谷のおばさんの葬式なんだけど、よかったら一緒に行かないかと思って」
とうさんは、ドアの向こう側から遠慮がちに言った。おばさんというのはおとうさんからみてなので、芳樹には大おばさんにあたる。おととい、老衰のために九十二歳で亡くなったことは、かあさんから聞いていた。
「うーん、どうしようかな」
芳樹は、枕を胸にかかえこんだ。芳樹が小学校低学年のころ、毎年夏休みに遊びに行った時に、大おばさんにはかわいがってもらっていた。
それに、どうせ今日もこれといってやることはなかった。
しばらく黙っていたが、
「……、じゃあ、行くよ」
と、とうさんに返事をした。
芳樹は了解したのをきっかけにするようにして、ようやくベッドから起き上がった。
すると、不思議なもので、さっきまでのむかむかした気分はすっかり消えていた。
すぐにパジャマを脱いだが、手が止まってしまった。
(どうしよう。どんな格好でいけばいいのだろう)
おじいちゃんのお葬式の時は小学生だったし、それ以外にはお葬式に出たことがなかった。
少し迷ってから、久しぶりに学校の制服を着た。
一階に降りていくと、すでにかあさんが朝食を作ってくれていた。目玉焼きとソーセージとブロッコリー、それにトーストとグレープフルーツジュースと牛乳だ。
芳樹はグレープフルーツジュースを一口飲むと、朝食を食べ始めた。
テーブルの向かい側では、おとうさんがコーヒーを飲みながら、新聞を読んでいる。もう他の家族は、朝食は食べたのだろう。
いつもなら、おとうさんは七時過ぎには、車で会社へ行っている。二つ年上の兄の正樹も、都内の私立高校へ通っているので、とっくに原付きで最寄駅まで行っているはずだ。
おかあさんも、二人のどちらかと一緒に朝食を食べたのだろう。前は、三人の中で出かけるのが一番遅い芳樹と一緒に食べていたけれど。
最近の芳樹にとっては、いつもよりもかなり早い時間の朝食だったが、残さずにおいしく食べられた。
先月から、芳樹はまったく学校へ行かなくなっていた。いわゆる不登校というやつだ。
朝、学校へ行こうとしても、ベッドから起き上がることができなかった。無理して起きようとすると、気分が悪くなってしまう。
(学校へ行かなくては)
そう思うと、すっぱい液体が口の中にこみあげてくる。無理に起き上がると、吐いてしまいそうだ。
「よっちゃん、時間よ」
毎朝、部屋の外から、かあさんの遠慮がちな声が聞こえてくる。
「うーん」
どうしても起き上がることができない。芳樹はそのままベッドに横になっていた。
「どうする?」
しばらくして、かあさんがまたたずねてきた。
「無理みたい」
芳樹が答えると、
「ごはんはどうするの?」
「うーん、後で」
芳樹は、またふとんをかぶって眠り始めた。
学校へ行かないと決めると、なんだかほっとしたような気分だった。芳樹は安心して、またぐっすりと眠った。
次に芳樹が目を覚ますのは、いつも昼過ぎだった。たっぷり寝たせいか、朝とは違って気分はすっきりしている。
芳樹は、さっさとベットから起きだした。いつのまにかすっかり元気になっている。
食堂へ行くと、かあさんが仕事へ行く前に用意してくれた朝食が、ラップをかけられて置かれている。
朝食のメニューはいつも決まっている
卵(目玉焼きかスクランブルエッグ)にカリカリに焼いたベーコンかハムかウィンナ。それに、ホウレンソウやにんじんなどの野菜のソテーだ。
朝食を食べるのは、お昼のバラエティ番組をやっているころだ。芳樹は、毎日、この番組を見ながら、朝ごはんを食べていた。
テレビを見ながら、食パンを二枚オーブントースターに入れて、トーストを作る。
パンが焼ける間に、冷蔵庫からオレンジジュースと牛乳のパックを出して、コップに一杯ずつそそぐ。
オーブントースターがチンと鳴って、パンが焼きあがると、トーストの表にたっぷりマーガリンをぬって、朝食が出来上がる。
おなかぺこぺこだった芳樹は、いつもがつがつと食べ始めた。
三分後、芳樹は、あっという間に、朝食を食べ終わってしまう。いつもまだおなかがすいている。
(今度はお昼ご飯だな)
と、思いながら、カップ麺が入っている棚に手を伸ばす。
かあさんが、学校へ行かなくなった芳樹の昼食のために、いろいろな種類を買っておいてくれていた。
芳樹は、選んだカップ麺に勢いよくお湯を注いだ。
埼玉県の熊谷は、芳樹のとうさんの生まれ故郷だ。
といっても、とうさんは小さいころに、東京の下町に引っ越してしまったので、そのころの記憶は全くないのだそうだ。
でも、熊谷には、今でもとうさんのいとこやその子どもたちが、たくさん住んでいる。
熊谷は、東京駅から新幹線に乗れば、ほんの四十分ぐらいで着いてしまう。芳樹も、小学校低学年のころまでは、夏のお祭りのときなどに毎年行っていた。
田舎のない芳樹にとっては、擬似「故郷」のようなものかもしれない。
「熊谷のおばさん」というのは、四年前に亡くなった芳樹のおじいちゃんの、一番上のおにいさんの奥さんだそうだ。だから、芳樹にとっては、大おばさんにあたる。
芳樹が小さいころに遊びにいったときには、大おばさんはまだ元気で、ごはんを作ってもらったこともある。
一年ぐらい前から寝たきりだったのだが、とうとうおととい亡くなったのだ。
大おばさんは、五人の子どもと、十人の孫と、十三人のひ孫に恵まれていた。とうさんに言わせると、立派な大往生なのだそうだ。
芳樹ととうさんは、中央線で東京駅まで出て、そこで上越新幹線に乗り換えた。
熊谷までの停車駅は、上野と大宮しかない。新幹線は、あっという間に熊谷に着いてしまった。
駅前でタクシーに乗った。
「メモリアル彩雲までお願いします」
とうさんが運転手にいった。それが葬儀場の名前らしい。
「あんまり変わりばえがしないなあ」
車窓から見える市内の風景を見ながら、とうさんがつぶやいた。とうさんの話だと、浦和と大宮が合併してさいたま市ができて完全に埼玉県の中心になって以来、昔は県北部の中心地であった熊谷市はますますさびれているらしい。
葬儀場には、十分ぐらいで着いた。
入り口付近には、もう大勢の人たちが集まっている。
「やっちゃん、遠くからどうも」
芳樹たちがタクシーから降りると、喪服を着た美代子おばさんが声をかけてきた。とうさんのいとこで、大おばさんの子どもの一人だ。芳樹が遊びに来た時には、この人に一番世話になっている。
「このたびはご愁傷様です」
とうさんが頭を下げている。芳樹も一緒に頭を下げた
「あれ、おにいちゃんの方かしら?」
おばさんが、芳樹を見ながら言った。
「弟の芳樹。学校が休みだったから連れてきた」
とうさんが、うまく説明してくれた。まさか、芳樹が不登校になっているなんて、元気な小学生だったころしか知らないおばさんには、ぜんぜん想像できないだろう。
「あらー、大きくなっちゃって。おにいちゃんの方かと思ったわよ」
美代子おばさんは、大げさに驚いてみせている。
芳樹はとうさんに続いて、葬儀場に入っていった。
式場の正面に祭壇が飾られ、黒枠の額に入ったおばさんの写真が笑っている。
まわりにはたくさんの花が飾られて、両側にもたくさんの花かごが並べられていた。その中には、とうさんの名前が書いてある花かごもあった。
「それでは、お別れをお願いします」
係りの人が、まわりを飾っていた花をちぎってお盆の上にのせた。それを、みんなでお棺の中に入れる。大おばさんは、お棺の中でたくさんの花に囲まれた。
芳樹も、おとうさんと一緒に、花を一握り、お棺に入れた。
その時、初めて遺体と対面した。
死んだ人を見るのは、初めてではない。おじいちゃんの葬式の時に、おじいちゃんの死に顔を見ている。
でも、ほほのこけた大おばさんの顔はまるで骸骨のようで、ちょっと薄気味悪かった。
「それでは、これでお別れです」
係の人はそう言うと、お棺のふたを閉じた。美代子おばさんも含めた何人かの女の人たち、おそらく娘や孫娘たちだろう、が泣き出した。
台車に載せられて運ばれていくお棺の後を、みんなが続いていく。芳樹もおとうさんと一緒に一番後ろから歩いて行った。
「ここの葬儀場はよくできてるんだぜ」
隣からとうさんがささやいた。
「えっ?」
芳樹が聞き返すと、
「あのさあ。火葬場は道路を隔てて、すぐ向かいにあるんだ」
「ふーん」
「だから、お棺を霊柩車で運ぶ必要がないんだ」
「でも、どうやって運ぶの?」
「実は、葬儀場と火葬場が地下通路で繋がっているんだ。だから、お棺は台車に載せたまま、直接火葬場まで運べるんだよ」
「へー!」
「参列の人たちも、そこを通っていけるから、雨の日なんかはすごく便利なんだ」
「でも、地下道にはどうやって行くの?」
芳樹がたずねると、
「大きなエレベーターが二台もあるんだ。それで、お棺を載せた台車や参列の人たちを一気に地下まで運ぶんだよ。そして、火葬場の地下にも同じようなエレベーターが二台あるから、みんなで直接火葬場まで行けるんだ」
「すげえな」
芳樹は感心して答えた。
おばさんがお骨になるまで、みんなは待合室に待機していた。テーブルには簡単な料理やお菓子が並べられ、ビールやジュースなどもある。
喪主の美代子おばさんやその兄弟たちが、みんなにビールをついで回っている。
「やっちゃん、お花をありがとうね。」
美代子おばさんは、芳樹のとうさんにもビールをついだ。
「いやあ、俺ばかりでなく、子どもたちもおばさんには世話になったから」
とうさんはそう言うと、うまそうにビールを飲み干した。
それを見て、芳樹もジュースに口を付けた。
そばでは、おばさんのひ孫にあたる小さな子どもたちが、緊張から解放されたのか、お菓子を手に走り回っている。さっきまで泣いていた女の人たちも、気持ちの区切りがついたのか笑顔でおしゃべりしている。男の人の中には、早くもビールで顔を赤くしている人までいた。
「準備ができました」
しばらくして、係の人の声掛けでみんなは火葬室へ戻った。
そこには、すでに、熊谷のおばさんのお骨が拡げられていた。
係の人が、大事な骨の幾つかを、そばにいる美代子おばさんたちに説明した後で、二人一組になって、長い箸のようなものでお骨を拾い上げて骨壺に収めていく。
芳樹も、おとうさんと組になって、大きめの骨を骨壺に入れた。
「働き者だったから、高齢にもかかわらず骨がしっかりしているんだよ」
終わってから、おとうさんが芳樹にささやいた。
確かに、あんなに小さくしなびたようになっていたおばあさんだったのに、お骨は、骨壷に入りきれないほどだった。
「それじゃあ。精進落としの会場までは、マイクロバスで移動願います」
美代子おばさんの夫のヤマちゃんが、大きな声で火葬室を出たみんなに声をかけている。ヤマちゃんの顔は、待ち時間に飲んだビールですでに赤かった。みんなは大きな声で話しながら建物外へ向かっている。
「さすが92歳の大往生のお葬式だねえ。ぜんぜん湿っぽい様子がないなあ」
とうさんが、隣で感心したように言った。
「92歳か」
芳樹もつぶやいてみた。14歳の芳樹から考えると、はるかかなたのことのようだ。そう思うと、ちょっぴりだけ元気をもらえたような気がしていた。