今度は、守護大名と戦国大名の違い。
割とわからない人が多いんですよね。
イメージとしては、守護大名が元々お家が良い人が強くなったイメージ、
戦国大名が本来はトップに立てない人たちがのし上ったイメージかな?
あと、細かく言うと違うけど、大まかには
◎南北朝の動乱を機に強くなった(室町初期)→守護大名
◎応仁の乱を機に強くなった(室町中期~後期)→戦国大名
と思っても良いです。
※あくまで分かりやすく説明するためにつくったものなので、
詳細は異なりますので、ご了承のほどよろしくおねがいいたします。
室町時代は200年以上続いた長い時代で
さらに、内容がもりだくさんなので、
内容ごとに3つに分けたいと思います。
3つの区分は、
初期:建武の新政~南北朝の動乱、
中期:3代将軍足利義満~8代将軍足利義政
後期:応仁の乱(8代将軍義政)~戦国時代
という形にします。中期と後期は時代が被っていますが、
内容的に、中期では義政の時代の文化を、
後期では義政の時代の戦乱(応仁の乱)を、という形にしております。
ではでは、今回は室町幕府の後期の授業を始めます。
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「ではでは、今回は、室町時代の終わりをやりましょう!」
「ついに、200年以上にわたる長い時代が終わるのね。」
「この前は、3代~8将軍まで行ったわね。
中期では、幕府中央の上の身分たちの動きや文化を中心に見ていったけど、
今日は同じ時代あたりにおこった、地方の動きや下の身分いわゆる一般民衆の動きを、
そしてそれによっておこる戦乱の世を見ていきましょう。」「はーい。」
「まずは、室町初期の南北朝の動乱の時期の地方の動きを見ていきます。」
「南北朝の動乱って、たしか・・・南朝と北朝に朝廷が分かれて戦っていた時代だよね。」
「室町幕府の1代将軍足利尊氏から3代将軍の足利義満のころまで
ずっと戦乱の世が続いたんだよね。」「そうそう、よく覚えているね。この南北朝の動乱の時代が
約60年間という長い間、
続いたものだから、室町幕府(および勝利した北朝)は
中央の政治でいっぱいいっぱいだったみたいなの。」「あ・・じゃあ、そうすると・・それぞれの地方を、幕府がしっかり見張るのが難しい?」
「うん、そうなの。
それで、南北朝の動乱で中央の幕府があっぷあっぷな状態なので、
うちらはうちらでやるわ~という感じになり、
地方を治めていた守護が国内の地頭などを家来にして、
国を支配するようになったの。」「鎌倉時代のように、
鎌倉幕府に忠誠を尽くす守護・地頭じゃなくなっていったってことね。」「あ、だから、室町時代初期にならった室町幕府のしくみのときに、
守護の下に地頭が入っていたんだ。」「このように、地頭を従えて、国内を支配した守護を守護大名というの。
実際に、室町幕府は、中央の将軍と、地方の守護大名の連合政権だったそうよ。」「中央(上)がごたごたしていると、本来従うべき人たちが力をつけてくるんだね。」
「そうなのよね。
そして、また同じように、上がゴタゴタする事件が
8代将軍足利義政の時代におきるの。」「あ、足利義政治って、室町中期のときに習った・・東山文化のときの将軍ね。」
「そうそう。足利義政のころに、
さっき言った守護大名である細川氏と山名氏という一族の対立や、
将軍家や管領家の相続争いなどが結びついて、
約10年間も続いた大きな戦乱がおこってしまったの。
その戦乱を、応仁の乱(1467~1477年)というの。」「うわー。いろいろな争いがまぜまぜで・・・。」
「応仁の乱で、京都は焼け野原となってしまってね。」
「なんで京都が?」
「よく考えてごらん。この時代に朝廷があるのは?」
「京都。」
「室町幕府があるのは?」
「京都」
「あ!わかった!朝廷も幕府も京都にあるから、そこが激戦地になったんだね。」
「そういうこと。
長い間幕府が戦争してて、
中央機関があるあたりが焼け野原になるってことは・・・、
地方の人たちはもう勝手に政治するわ~ということになるよね。」「あ・・・たしかに。」
「さて、そこで、応仁の乱を少しさかのぼって、
1400年代前半の地方&一般民衆の動きをみていきましょうね。」「はーい。頭を切り替え切り替え!」
「まず、室町時代になると、農業・商業などの産業が発達したの。
例えば農業では、鎌倉時代では西日本を中心に行われていた二毛作が
関東地方まで広がったり、水車を使ったりするようになってね。
それで、だんだんと農民たちの生活も豊かになっていったの。
また商業も活発になっていったので、市場も多く開かれるようになった。
鎌倉時代では月3回だった定期市が、室町時代には月6回になったそうよ。」「農業も豊かになれば、それだけ、物も増えるからかな・・。(予想)」
「そして、港には年貢をたくわえる倉庫である問丸(といまる)が、
京都や奈良の都市では、土倉と呼ばれる質屋がさかえたの。
酒屋も金貸しを営んでいたそうで。
都市に住んでいる人たちはもちろん、
都市の近くの農民も土倉や酒屋から金を借りていたそうで。
こうやって、産業がさかんになったので、都市が発達するの。
港付近で発達した都市を港町、神社や寺のまわりで発達した都市を門前町、
と言います。」「ほえー、どんどん一般庶民も豊かになっていくんだね。」
「そうなの。他にも、商業が活発になったものだから、
商人や手工業者などが、座(ざ)という同業者の組合を
作ったりもしてね。まあ、いわゆる今で言う会社みたいなもの?」「へー。」
「でね・・・、そうなると、商人や農民たちが、
あれ?おれらだけで生活できるんじゃね?
おれらだけで住んでいる村(国)を動かしてもいいじゃないか?
守護大名がいぱっておれらの住んでいるところを支配しているけど、
守護大名がいなくてもいいんじゃない?
という自立心がでてきたの。」「そうだよね。力をつけてきたら、わざわざ従う必要がない!と思う人もいるもんね。」
「例えば、農民の場合はどうか、を見ていきましょう。
農民たちの暮らしが豊かになるにつれて、
村の有力者の中で新しく武士になる人が現れるの。
そのような武士を地侍(じざむらい)といいます。」「農民から武士の身分になった人もいるんだ。」
「地侍にならない農民たちでも自立する人たちも現れて、
自分の住んでいる村のまわりの堀をめぐらせて戦乱に備えたりと、
全員で力を合わせて村を守るようになったりね・・。」「農民たちだけで、1つの領地ができたみたいな感じなんだね。」
「うん。農民たちは、寄合(よりあい)という会合(会議)に集まって、
村のおきてなどを決めていたそうよ。」「あれ?寄合っいう言葉聞いたことある!
ぼくのおじいさんが、地元の農家の人たちと会議しにいくときに、
「寄合に行ってくるでよー。」と言ってた!」「ハム君のおじいさんは農家なんだね。
今でも、会合のことを寄合というところもあるみたいね。」「あと、寄合をしながら、農民たちが自分たちで治める自治組織を惣(そう)と言います。」
「あれ?うちの地名に、「惣」っていう文字がついているよ!
それって、ここからついたのかな?
僕の住んでる地域は昔から農業がさかんだったみたい。」「うーん、どうなんだろう。郷土史を調べてみないと何ともいえないけど、
その可能性も大だよね!」「今度の夏休みの自由研究は地名について調べてみようかな~♪」
「そうだね。おもしろそうなのでがんばってねー!
地元の図書館に行くと、良い本があるかもしれないわね。」「はい。」
「さて、ここで本題に戻るね。農民たちは惣という自治的組織をつくり、
次第に自立していく。
しかし、その地域を治めている守護大名や荘園領主たちは存在しているでしょ。
その人たちに対して、年貢の引き下げなどを農民たちが要求するようになっていく。
そして、重い重税をかける守護大名などに反乱して農民たちの反乱が各地で
おこるようになる、
そのような反乱を、農民(土民とも言う)たちが一致団結して動いたという
意味で、土一揆(どいっき・つちいっき)と言います。」「農民たちがすっごく強くなったんだね。」
「農民あがりの地侍もいるから強そうだよね。」
「この土一揆で有名なものが、
1428年に近江国(おうみのくに:現在の滋賀県)でおこった
正長の土一揆(しょうちょうのどいっき)。
この一揆は農民らが、徳政令(借金の帳消し命令)を出すように
幕府に要求したそうで、酒屋や土倉におしかけて、借金証文を破り捨てたそうで・・。
これが一番初めの土一揆で、この後、各地で土一揆がおこるようになったの。」「土倉は質屋のことで、酒屋は高利貸しをしていたって、
さっき習ったよね。まさか、こうつながるとは・・。」「ちなみに土一揆が始まったのは、応仁の乱以前なのよ。
(応仁の乱以降も土一揆は続くけど))
今度は、応仁の乱以降の民衆の一揆を見ましょう。
約10年続いた応仁の乱で中央はもうガタガタ。
もちろん、地方のトップ(守護大名たち)だって、ごたごたはする。」「室町幕府は幕府の将軍と地方の守護大名の連合政権だったから、
幕府がゴタゴタすれば地方でもね・・。」「そのころは、土一揆はおこっているわ、
村の農民や都市の住民たちが自分たちで自治をするわ・・で
民衆の力が大きくなっている。
それで、一般民衆たちが守護(守護大名)を追い出して、
完全に自分たちで自治するような反乱をおこすこようになったの。
それを国一揆と言います。」「もう、民衆の力はとめられないんだ・・。」
「国一揆で有名なのが、
1485年に始まった、山城の国一揆。
山城(やましろ:現在の京都)の地侍などがまとまり、
その国を治めていた守護大名の畠山氏(はたけやまし)を押し出して、
8年間自治を行ったのよ。」「強い・・・。」
「あと、他にも、応仁の乱あたりから、一向宗(浄土真宗)が
近畿・北陸・東海地方に急速に広まってね。
一向宗を信じる地侍と農民たちが固い絆に結ばれ、村ごとに団結して、
さらにいくつかの村々が固まって荘園領主や守護大名に対抗するようにもなってね。
そのような反乱を一向一揆というの。」「ほえー。」
「一向一揆で有名なのが、1488年におきた加賀の一向一揆。
加賀(かが:現在の石川県)が守護大名の富樫氏(とがしし)を攻め滅ぼして、
約100年間も自治を続けたの。」「100年!すごい!それだけ加賀は農民たちが強かったのね!」
「そうなの。なので、加賀は「百姓(ひゃくしょう:農民のこと)の持ちたる国」とも
呼ばれたりも。」「ほえー。」
「これが民衆の動き。では、次は地方の大名の動きをば。
応仁の乱以降、ずっと戦乱が続くようになった。
そのうち、下の身分の人たちが上の身分の人たちを実力で倒して
自分たちがトップに立つようになる風潮が出てきたの。
そのような風潮を、下剋上(げこくじょう)と言います。」「もう、身分よりも実力がモノを言う時代になってきたんだね。」
「そうね。このように実力をもって領地を支配するようになった大名を戦国大名というの。
戦国大名たちは、荘園を奪って、その土地とそこに住んでいる住民たちを
直接支配するようになって自分たちの国をつくるようになる。
さらに、自分たちの領地の独自のきまりをつくって、それに基づいて領地を支配した。
そのようなそれぞれ独自につくったきまりを、分国法と言います。」「もう、ごっちゃごちゃだね。」
「そうなの。一般民衆の農民や地侍の土一揆や国一揆はおこるわ、
地方のトップは戦って地位は獲得するわ、幕府や朝廷のある京都は
応仁の乱で焼け野原になって復興するのに大変・・・。
もう、誰が誰に従うかごっちゃごちゃ、気にいらなければ戦おう!
という戦乱の世になった。
このような戦乱が応仁の乱以降約100年続く。
そのような時代を戦国時代というの。」「あ、戦国時代って聞いたことある!」
「有名だものね。戦国時代っていうのは、
室町時代の後期(最後の約100年)を指すのよ。」「ほえー。」
「ではでは、今日はここまで。今度は戦国時代がどのように終わったかをやるわね!」
では終わります!起立、礼!」「ありがとうございました!」
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わかりやすく解説していので、「こういう説もある!」という専門的なことを
引き合いに出されてもお答えできないことがあるかもしれません。申し訳ありません。
不快な気持ちになった方には申し訳ありません。
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