みなさま、本日もありがとうございます。
れくす先生の歴史授業の続きです。
前々回はメソポタミア文明、エジプト文明、
前回はインダス文明(+その後のインド文化)を行いました。
今回は、中国文明です。
1 はじめに
他の文明と違い、中国文明のみ、
中学では「王朝」名を
習います。
(高校レベルだと、
他の文明でも王朝名を習います。)
また、教科書によっては、そのまま、
中国の王朝の歴史に進みます。
そのため、中国文明というくくりで
あまり習わないことが多いです。
そもそも「文明」というくくりも、
歴史の情報を整理しやすくするために
つけたものにすぎなく、
どこまでの時期を「文明」とするか?
にこだわるよりも
「文明という名がつくのは、その地域の
大規模な集団生活が始まったんだよ、
ということなんだな」という程度で
考えても良いと思います。
2 黄河の文明、長江の文明
中国の文明そのものは
黄河流域でも長江流域でも
おこったとされています。
地理でアジア地方を習ったときに
中国の2つの大きな川として
黄河と長江を習います。
「河」も「江」も、
「河川」の意味が入っているので
「〜川」とはつけません。
河川名と聞かれれば
「黄河川」「長江川」としずに、
「黄河」「長江」と書く形になります。
また、黄河と長江では、気候や植生も
違ってきます。
古代の黄河では、畑作で
稗(ひえ)や粟(あわ)を、
長江流域では稲作で、稲(米)が
栽培されて
そこで多くの人が住み、
それぞれの文明が
築かれました。
黄河流域は乾燥している地域が多く、
長江流域は温暖で夏に雨が多い(温暖湿潤気候)である地域が多いです。
今は品種改良されて、稲(米)は涼しいところでも、水が少なくても作ることができますが、元々の稲は、
暖かくて、育つ時期の夏に雨が多い
ところである必要がありました。
そのため、長江では稲が栽培できますが、
乾燥して涼しい気候である黄河流域では
水を多く必要としなくても育つ(畑作で育つ)、稗や粟が栽培されました。
中学生の習う歴史では
それぞれの河川で生まれた文明を
習うわけではありません。
中学では、黄河流域で
生まれた王朝の
「殷(いん)」から始まり、
さらに黄河流域の王朝をメインに
勉強していきます。
他の地域の歴史でも同じことが
言えますが、
その国の歴史を考える時、
今の国の領土という広さで
歴史を見ないようにします。
今の価値観からすると、
小規模な地域での歴史です。
今の中国という国の規模で
考えるのでなく
黄河流域での都市の規模(都市国家)での
王朝と考えてください。
そして、黄河流域の王朝が、
あたらしい王朝にうつりかわっていくうちに
初期には、いわゆる連合を組んで
グループ内で
まとまっていた形(地方分権)から、
1つのトップ(皇帝)が地方までまとめていく形(中央集権)に変化し、
だんだんと領土を広げていきます。
殷は地方分権の王朝で、
中国が中央集権国家になったのは
秦のときです。
(地方分権と中央集権については
後日、別記事でアップします。)
今の中国の、長江流域まで領土が
広がるのは、かなり時間がかかりました。
教科書や資料集には
地図が載っているので
各王朝、各時期、の
勢力図を見てみると
よりわかりやすくなります。
3 殷
さて、中学レベルで習う中国の王朝名で
最初に出てくるのが「殷(いん)」です。
殷王朝以外で「殷」という漢字を
日本では、ほぼ使うことはありませんので
初めて習うと「難しい」という印象を
うける人もいるかもしれません。
しかし、そこで焦らず
じっくりと勉強していただければ
良いと思います。
中国の王朝で、黄河流域で成立し、
現在歴史上で最も古い王朝と言われている
のが「殷(いん)」です。
神話や伝説では、「殷」より前に「夏(か)」という王朝があったと
言われていますが、
「夏」の遺跡や遺物などが出ていないため
「歴史」という点では
「現存していると歴史で確約されている」のは遺跡が出ている「殷」となります。
殷の遺跡のことを
「殷墟(いんきょ)」といいます。
「墟」とは
「歴史的なできごとがあった場所(跡)」という意味なので、
「殷という王朝があった痕跡のあるところ」=「殷墟」となります。
殷は、メソポタミア文明やエジプト文明で栄えた国々と同様、宗教と強く結びついた王朝です。
ノートに殷について
まとめました。
殷では
戦争など、何かの決定で大きく後の歴史が変わるような出来事を考えるときには
占いをして、決めていました。
その占いの結果を記した文字を
甲骨文字と言います。
甲骨文字は、亀の甲羅や牛の骨などに刻まれた文字なので、「甲羅の甲」、「骨」の文字をとって、甲骨文字と呼ばれてます。
甲骨文字は後の漢字の元になる文字で
今、使っている「山」などの文字は
「甲骨文字」に似た漢字です。
殷王朝の時期には
まだ鉄器は使われておらず
青銅器が使われていました。
殷の青銅器なのですが、
かなり複雑な文様や形のものがつくられ
高度な技術がないと作るのが
難しいと思われるものだそうです。
現代でも、その作り方の詳細は
不明らしいです。
失われた技術、とも言えます。
私達が歴史を習う時、
とくに技術や学問に関して言えば
「現代に近づけば近づくほど
技術や学問は発展している」
「昔の人は、何も知らなく、
技術は今の技術よりも遥かに劣っていた」
と思い込みやすいです。
しかし、実際にはそうではありません。
もちろん、「ファスト」という意味では
現代のほうが先進的でしょう。
一度に同じレベルのものを定価価格で
作りだす技術は、今のほうがあるかも
しれません。(もしかしたら、新しい歴史の発見があれば、それも変わるかもしれませんが。)
しかし、「技術力」のみに特化すれば
過去に、現代より優れた技術を作って
いることもあるんです。
また、私はふだん生活して
金属を作り出す技術を自ら発見
できる才能はありません。
しかし、過去に、人類初の金属生成を
発見し、発展させた人々がいるからこそ
今があるわけです。
過去のもの、昔の人々が
現代の我々より
「無知」「劣っている」
「かわいそう」など
と思って歴史を見ると
歴史を理解できません。
必ず、「敬意」を払って、
その時代、その時代の人が
どう生き抜いてきたのか?を
考えて見る必要が私はあると
思います。
今回は以上です。
次回は、周王朝成立時と、その後の
春秋時代、戦国時代を行います。
なるべくはやく、完成して記事をアップできたらいいな、と思います。
ご覧いただき、ありがとうございました。