カプメイの独り言

2シャム猫的お気楽生活

歩け歩けのポーランド紀行 その5(後編)

2013-09-16 17:01:44 | ポーランド

後編の副題は、贖罪・・・かな。

軽い昼食(しつこい)後、崩れそうな天候の下、工事中の現場へ。


ここは、ジョン・ポールⅡのセンター。
って、ビートルズじゃないのよ!

ヨハネ・パウロ二世センター(教会)



聖遺物


帰って来てから分かったのだが、
ヨハネ・パウロ二世は今年7月に聖人となる条件の「奇跡」が認められ、
年内にも列聖式が行われるらしい。

で、この大きな聖書の中央右下に血の入ったカプセルがあって、
これが聖遺物。
信徒がカプセルをキスしては上に掛かってる白い布できれいに拭って祈る姿が印象的。

ポーランド出身で、クラクフの大学でも学んだヨハネ・パウロ二世の人気は高く、
亡くなった後、クラクフでは遺体を全部欲しかったのだけど認められず、
部分もダメで、やっとこさっとこ病院で検査採血されたのを分けてもらったらしい。 
聖人になると、世界中の教会が聖遺物を欲しがるから大変なんですって。
で、本体はちゃんとバチカンで埋葬されている。

 

教会、自慢のモザイク。
5人の職人が2日で作った。(これも奇跡?信仰心ってスゴイ!)

岩塩で作った最後の晩餐(レプリカ)=本物は後日アップします。
 

午前中、ダンのおかげで日程が押していて、
案内を予約していた修道士のミサまでの予定がギリギリになり、
早口(英語)で説明するもんだから、内容が全部理解できたとは言えないけど、
 とにかく圧倒されましたわ。



次の見学場所は、ベデディクト派の修道院

ティニェツ修道院


壊れた壁からクラクフに繋がるヴィスワ川


修道士(ブラザー)に案内してもらう。
(クロックス履いてるよ~。)


左の女性はイスラエル人。
(アウシュヴィッツの回で登場するので、覚えておいてください。)

内陣奥には90歳の修道士。
何でも知っているそうな。生き字引・・・。
 

美しい船形講壇(説教台)
 

ベデディクト派と言うと、自給自足。
ウンベルト・エーコの「薔薇の名前」(舞台はイタリア)を思い出す。
畑を耕して食事を作り、薬草園で薬草を育て、清貧をモットーとする。。。というのが私の認識。
ベネディクティンっちゅう、ハーブ系リキュールもある。(うみゃいよ。)

なので、売店も充実。

この辺のどこが清貧なのか、イマイチ私には理解できないのだけど、
正しい神の食品として人気だとか。
私らは誰も買わなかったけど。。。

ハーブ茶でも買おうかなって思って箱を見ていたら、
マグダが説明してくれた。
これは、夜寝る時とか、気持ちを穏やかにしてくれるお茶。
こっちは・・・・・男性が元気になるお茶。詳しくは聞かないで。想像してちょうだい。

あ、了解です。要りませんわ。。。



最後はコシチュシコ山に登る!



標高333m
風強し。飛ばされそー。



実際に登るのはたぶん70mぐらい。



ポーランドの英雄タデウシ・コシチュシコが第2回ポーランド分割後、諸外国に対し蜂起して作った砦。



クラクフの街を臨む


そしてくたびれ果てて、学会会場へと帰る。
くたくた~~、夜の予定はガラコンサートと夕食。

学会会場でコンサート。
出演は「美しいモニカ・ベンゲル」


力強い歌声。
歌うのはキャバレーなどのポピュラー。

夕食後、会場から、
乗り場を探してすったもんだしながら、
行きとは違うバスに乗ろう、、、、と思ったら、行っちゃったばかりで30分待ちなんで、
結局遠~~~~いトラム駅まで歩いて、ホテルへ戻る。
ぢがれた・・・・・・。 

つづく 


歩け歩けのポーランド紀行 その5(前編)

2013-09-16 15:07:05 | ポーランド

クラクフ2日目
レディスプログラムが始まります。

ホテルから集合場所の会議会場間は徒歩だと30分ぐらいあるので、
バス&徒歩で行ってみる。
ホテルで教えてもらったバス停から、結局20分ぐらい歩く。
あまり意味無いなぁ。。。とぶつくさ言ってたら、転んだ。
いきなりですかぁ~~~。



8時半集合で出発、ガイドさんはダイアナ妃似のマグダ。

先ずはユダヤ人居留地だったガジミエシュ地区へ

映画「シンドラーのリスト」のロケ地になった場所。

ポーランド最古のユダヤ教会 スタラ・シナゴーグ
(現在ユダヤ人博物館)



昔はここにユダヤ人がひしめきあってただろう広場は、
犠牲者追悼の碑があるものの、駐車場兼観光拠点。
クリック拡大で中央にダビデの星=追悼碑


スタラ・シナゴーグの裏


天気がいいのに、朝から重い雰囲気になっていく。

レーム・シナゴーグ(現在もシナゴーグとして使われている。)


門の前右の白いコートがガイドのマグダ。
左の男性はイスラエル人研究者でノーベル物理学賞受賞者のダン・シュヒトマン博士
午前中の参加者はイスラエル人が6名。
ドイツ人1名、オランダ人1名、ベトナム人1名、日本人5名
イスラエル人はどういう気持ちでこの地に訪れたのだろう。
内3名は母と子2人の親子だったので、この先の訪問地でも気になった。

次はシンドラーのホーロー工場跡 現クラクフ歴史博物館

ガイドのマグダの家族は昔からクラクフに住み、
祖父は大学教授だったという事なのだが、
クラクフがドイツに占領されて以来の話が、生の歴史として語られる。

クラクフの王宮にナチスの旗が揚がった日のこと。 。。
そして、これからの大学運営についての説明を受けるという名目で大学教授が大学に集められ、
そのまま連行されドイツ・ザクセンハウゼン収容所へ送られた話。
これはポーランド人に教育をさせないということだけではなく、
知識人による抵抗運動、扇動を予防する目的があると思われる。
こういうドイツのやり方に、緻密な計画性を感じる。
そして、後日行ったアウシュヴィッツでは、それを確信することになった。

シンドラー博物館では記録映画(ナチス撮影?)があって、大学教授が集められる様子を映した。
大学教授の名簿もあり、そこにマグダの祖父の名があった。

展示の写真なんか撮る気にならない。
言葉少ないレディースであった。
そして、ノーベル賞博士ダンは常に遅れ気味。展示を詳しく観ているようだった。 

展示室は暗いし、通路は狭い。そして展示品は重くて多い。
午前中で、酸欠。
外に出た時は、本当にホッとした。
(この思いは、やはりアウシュヴィッツでも実感できる。)

ここでダンは本業に戻るためレディースから離脱。
私たちは軽い昼食となった。(詳しくは食事編を待ってね。)

午後の行程は後編へ続く。