カプメイの独り言

2シャム猫的お気楽生活

歩け歩けのポーランド紀行 その7

2013-09-19 15:05:17 | ポーランド

前夜遅く帰っても、翌日のプログラムは容赦なく早朝に開始される。
01:00頃寝て、06:00に起床、
06:30から朝食、07:30にホテルを出て、待ち合わせてタクシーで会議場(集合場所)へ
08:15に点呼、08:30に出発

・・・そりゃ、バスの中で寝るわなぁ~~。
でも、日本人以外の年配者(60歳~70歳ぐらい)は元気だ。
基礎体力が違うのか。。。

本日の目的地、と言うか今回の旅行の最大の山場、
漏れなくアウシュヴィッツ(オシフィエンチム)



行きのバスの中で予習のビデオが流される。
収容所に送られた人々の顔や登録番号が刺青された身体などの映像。

すると、同行の一人のイスラエル人夫人が話し出した。
(覚えててねのベデディクト僧院の女性)
「夫(研究者)の身体にも、あの数字がある。」

ビデオが流れる中で聴きにくい上、解りにくい彼女の英語を一生懸命聴いたのだが、
どうもご主人はアウシュヴィッツの生き残りのようだ。
子供の頃の話で、家族で収容され、
バラバラに選別されたのだが、何とか生き残り、
終戦後、偶然が重なり再会できたと言うのだ。
(どこどこで保護され、どこどこで生活していたら・・・・と話していた。)
家族はその後イスラエルに渡ったのだろう。
そして今の生活がある。
2度とアウシュヴィッツに行くことは無い。

そんな衝撃的な話を聞きながら・・・

ARBEIT MACHT FREI


「働けば自由になる」の門

全員ワイヤレスガイドシステムのヘッドホンをする。
私たちのチームは小柄なガイドさんで、静かな声の人。
ヘッドホンから聞こえてくる説明が染み入る。



長閑な佇まいだが、全部元収容施設。



以前から本を読んだり映像から抱いてきたイメージは、
シャワー室でシャワーヘッドからガスがシュワーッと出てきて、苦しむ。
というのだったのだけど、

実際にはチクロンB


シアン系殺虫剤で粒々。
これをばらまくと気化する。

これだけの缶が消費された。


アウシュヴィッツにはユダヤ人だけが送られたのではない。

ソ連軍捕虜、政治犯、ロマ(ジプシー)、同性愛者なども収容された。

選別ごとの標識


服にマークを付けさせられる。


ガス室


チクロンB投下口


映画や本からの印象で、私の頭の中のイメージはモノクロ。
こんなに晴れた、気持ちいい季節の明るい風景ではない。
ユダヤ人もドイツ人も、こういう日でも殺され殺したのだろう。
何故そのような狂気の時があったのか。。。


ヘスの絞首台



車ですぐのビルケナウへ移動



ヨーロッパ中から集められたユダヤ人はここまで運ばれた。
線路の奥、左右にガス室がある。

例えばスウェーデンからなら、貨物車にぎゅうぎゅうに詰め込まれ、
座ることも、休むことも、トイレヘくことも出来ずに5日間。
疲れ果てて死ぬ者もいる。
貨車は汚物で臭くなり、人々は体力的にも精神的にも弱り切る。

やっと到着してフレッシュな空気を吸うことができ、やれやれと思った時に、
先ずはシャワーを浴びるからと男女に分けられ、
荷物はそこに戻って来るから置いたままにして大丈夫と言われ、
汚れた服を脱ぐように言われて、
シャワー室へ入れば、そこはガス室。。。

元気そうで働けそうなものは残されて、収容される。



一段に3~4人、もっとか。。。
寝具などはほとんど無く、冬は暖房があっても使われた形跡がない。
家屋は薄い屋根壁の木造。

トイレ


一日に朝夕2回のみ使用可。紙は無く、自分の服で拭く。

死の門


どういう気持ちでこの風景を見ていたのか。


アウシュヴィッツは心の準備をしていたので、
囚人から取った大量の髪、装身具などの山を見ても、
何とか持ちこたえることができた。
サイレンサーで銃殺した壁、地下牢などは、
そこにいた人の姿を想像するといたたまれない。

そんな殺戮施設、絶滅収容所の中で生活したドイツ人の精神も病んでいたに違いない。
麻痺した状態でなければ、こんなことができるわけない。

誰かが「どうして反乱しなかったのか」とガイドさんに問うた。
大量に送られてきたのだから、反乱すれば良かったのにと。
どうして言いなりになっていたのか。

ガイドさんの答えは聞きそびれたのだが、
私は「出来なかった」のだと思った。

精神的に追い詰められたこともある。
巧妙に理由を揚げられて誘導されたのもある。
そして長い歴史で染みついているユダヤ人の気質故でもあるのではないか。

キリスト教が排他的で、キリストを裏切ったのがユダであったり、
職業的に卑しいとされた金融業(金貸し、錬金術)などに従事していたこともあって、
ユダヤ人は差別され続けた。
そんな中ユダヤ人は耐え忍んで、或いは強かに生き残っていた。
財産を身に着け、時には賄賂を贈って窮地を脱したかもしれない。

きっと今回も我慢していれば嵐は去る。
いざとなればドイツ人に金を渡そう。
そう思って全財産を持って貨車に乗り、言われるままにシャワー室へ。。。 

そして、ナチスもそういう気質をうまく利用した。

ぐるぐるとそんな事を考えながら、アウシュヴィッツを後にした。



軽い昼食後、
プシュチナ城を見学

プロイセンの侯爵の城で、館内には趣味の狩猟の角がいっぱい。


ドイツの領主の館(城)へ行くと、こういうのが多いのだが、
ここでもそうで、私は嫌いなのでゲロゲロ~な気分。
部屋の壁全面に角や剥製ってどうよ。

こういう気質がホロコーストを招いたんじゃないかと勘繰りたくなる。

社交界の花デイジー夫人の話を聞いても、「あぁそうですか~。」と聞き流す。
功績はあったみたいだけれど。。。

戦後再建されたものらしいが、
ドイツ系の城なのでか、ドイツ語のパンフレットが珍しくあった。

サロンにはピアノ。


ブログを書くにあたって調べたら、
ここって1704~1707年にテレマンが宮廷楽師(オルガン楽師)をやってたらしい。
それで1979年以来「テレマンの夕べ」というコンサートが毎年催されているらしい。
ほやや~~~、このサロンはただもんではないと思ったら、そういうこってしたか。

それにしても疲れましたわ。

帰りの車中ではドロドロに寝た。

会場に戻っても、ホテルに戻る力は無いから、そのままの姿で夜のパーティーに突入。
いいの。グリルだから。ジャズだし・・・。



ノーベル夫人、タフやなぁ。
他のイスラエル人とかも踊ってた。
私ら日本人は食べるだけ食べたら撤収。
 ホテルは遠いぞ、ガンバレ!ってなもんさ。
(バスとトラムで帰れました。) 

 翌日も頑張れ!

つづく