ケパとドルカス

『肝心なことは目では見えない』
これは星の王子さまの友達になったきつねの言葉。

生きているからこそ

2012年07月24日 | 示されたこと

 最近、テニス肘を再発し、Cross_52 「負け」がこんでくる。特に若い人にパワーで打ちまかされ、こちらが「決めた」と思うショットを俊敏なコートカバーで拾われると特に落ち込む。肉体だけに限ると、「老いる」とは、希望が摩耗していくことである。決して後戻りすることのできない下り坂を、「下りたくない」「下りたくない」と願うのに、一歩一歩下ろさせられていくことでもある。肉体と、その肉体の命に限っては、ある意味で現実は残酷である。


 なぜ「老いる」のか?その行き着くところ、死がある。「老い」は体が滅びることが現実であることを教えてくれる、すばらしい機会なのだ。だから、この機会に、死の先のこと、永遠の世界を見つけることさえできたら、老いはすばらしい祝福の合図なのだ。今はその時のための猶予期間なのだ。滅びる体ではなく、滅びない心に目を向ける時なのだ。

 ここでポイントになるのは、「死後の世界などない」と思っている人には、おそらく思っている通りに見つからないだろう。しかし「霊魂の世界は確かにある」と思って探す人は、それを見つけ出し、すばらしい報いを受け取ることが可能である。衰えていく体の先に見えるものこそ、真実なものなのだ。

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 以後は牧師という自分の仕事でもあるが、本当の事なのだから許していただきたい。古から、よみがえり(蘇生)は稀にあった。しかしせっかくよみがえった人でも、誰一人例外なく、やがて死んでいった。

 しかしキリストだけが、よみがえっても二度と死ぬことがなかった唯一の例である。元の肉の体でよみがえったのではなく、霊の体でよみがえったからである。この霊の体こそ、神の国へのパスポートなのだ。だからキリストにつく者、キリストに従う者は、師キリストと同じように、二度と滅ばない永遠の命が与えられる。

 400年以上も前から、クリスチャンが「踏み絵」を踏んで殉教するのは、死に優るものを持っているためなのだ。肉の体がある、生きている時だからこそ、命に優るもの(永遠の命があること)を、たった一つしかない命で証明するのだ。

 神を信じないで、滅びる肉の体が後生大事な豊臣秀吉や幕府は、到底理解できないそれが一番怖かったのだろう。  ケパ

 

 

 

 
コメント
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