夏に宮崎駿の「風立ちぬ」を見た。第二次大戦での名戦闘機「ゼロ戦」の開発リーダーだった堀越二郎にちなんだ映画である。「こんな映画が出きるほどに、戦争も回顧できるようになった」、そう感じた。 ところがこの度の「永遠の0」である。ゼロ戦を作った人の映画に、これはゼロ戦に乗った人の映画である。なんという偶然だろうか。しかもこの作品は徹底的に当時の戦争というものの時代を「証言」という形で綴りながら、「風立ちぬ」とは真反対の形で、生きるということを描いた、強いメッセージ性のある映画である。
私は二回もこの映画を観たし、原作の文庫本や漫画本を買った。命をかけて戦う者には、命をかけてまで守るものがあった。当時としては公にあまり口にはできなかった、「家族」のためにがこの映画のテーマなのだ。家族のために生きようとしたが、最後はその意志を部下に託しながら、散っていった教え子の分も締めくくるように自分も特攻死で精算した。
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私は特攻について論じる資格は無いが、話はかなり変わる。高校生の時、遠藤周作の「沈黙」を読んだ。ちょうどクリスチャンとして洗礼を受けようと思った時だった。しかし、もしクリスチャンになって迫害に遭ったら、自分はあの神父のように転ぶかも知れないと怖くなった。転ぶくらいなら、いっそ信じない方が罪が少ない。そう思ったのだ。
大学生になって、少し学生運動をして、そして挫折した。それでもう一度神を信じることができたのだが、「死んでまで信仰を貫けるか」はずっとふたをしたままだった。
それから30年も経って、深刻な悔い改めをし、神の声を聞き、新生を体験して・・・・・いっぺんに吹っ切れた。「神はほんとうに生きておられる!」そのことがわかったとたん、死を超えられた。
どうも人間って、大切なものを見つけたら、そのためには死ぬことができるのだ。「永遠の0」での宮部久蔵もそう。逆に自分の命が惜しい人は、自分の命以上のもの、その存在を、まだ見つけることができていないで、死にきれないのだ。これは不幸だ。 ケパ