今年も二月五日が近づいてきた。この日は長崎の西坂の丘で、太閤秀吉の命により、26人のキリシタンが殉教した日だ。わが国ではじめてキリスト教(カトリック)の教役者、信徒が磔(はりつけ)の刑にかけられた(左絵)。この後、徳川家光の時代にかけて、一時はこの国の人口の1割を占めていたと言われていた信徒は、我が国みぞうの大迫害、幾十万という殉教者を出して(ごくわずかな隠れキリシタン以外は)ほぼ消滅させられていった。これは殉教という面では、世界的に見ても類のないほどの膨大な死者であり、それがこの国において行われたのだ。
この殉教を扱った遠藤周作の「沈黙」に出会ったのが高校生になった頃だと思う。この棄教の作品を通し、以後私は「信仰のために自分は死ねるのか?」という問いに、かれこれ45年くらい、抜け出せずに苦しむことになった。死を恐れて棄教するぐらいなら、初めから洗礼など受けない方が良い、受けて転ぶと神を欺くこととなり、かえってひどい審きを受ける、そう思った。
しかし二十歳の時、学生運動の挫折から、殉教のことはさて置くことにして洗礼(全浸礼)を受けた。が、課題は解決していたわけではなかった。解決にはさらに三十年以上必要だった。
解決したと言ったが、その頃の私は四面楚歌というか、あらゆる面で失望と落胆、破れかぶれのどん底にいた。重度の精神の病を身近にかかえ、家族は離散。仕事でも、毎日辞表を胸ポケットにしまって出勤するような日々だった。当時長く所属していた教会に対しても、その信仰に落胆し離れていた。とにかく希望を失って、そして神を呪いはしなかったが、呪いたい心境でもあった。神を信じる者は祝福されて当然だと思っていたのに、この時の状態は最悪であった。
そのどん底の中で、ふと自分の高慢さ(ドラえもんのポケットのように、神を自分を恵ませる道具として遇していたこと)に気がつき、心底悔い改めた。悔い改めた途端に、私ははじめて神に語られ、臨在の恵みを体験する出来事があった。神は確かに生きておられ、個々人の誕生のはじめから関わってくださっておられることも知った。驚くべき体験だった。
すぐに聖霊のバプテスマを受け、祈りが楽しく待ち遠しくなり、交わりが深くなるとともに少しずつ神を知るようになった。すると神がまさしく愛そのもののお方であることがわかり、喜びが私にあふれた。もう片時も離れられぬ、そんな慕わしい存在になった。そして死が克服されたのだった。殉教は死ぬことではなく、(神とともに)生きることの選びなのだ。うれしい、喜びと希望に満ちた入り口なのだ。
なぜか?肉体の死の先に、愛する父なる神が待っておられるからだ。死は苦痛を伴うかも知れないだろうが、一時のものであり、取るに足りないものに真実思える。死を超えて余りある天の喜び、神のすぐ近くで永遠にお仕えできる世界がある。それが待っている。だから死は凱旋であり、死とは比べものにならない天の価値を提示することでもある。ただ、滅ぶべき死しか知らない者には、まったく理解できないのだ。
だから死を恐れる人は臆病なのではなく、死より価値あるものを知らないのだ。肉の命にすがりつくこと、それはまさに命を失うことにしか思えない。残念ながらこの国では、そんな人がほとんどである。だから必ず来る死に背を向け、考えないように逃げるとか、不老長寿、医療や健康などを頼りにして、最後の最後まで生きようとする。これは実にあわれな状態である。
私の世にある使命は、十字架の神の愛と罪の赦し、信じることで得られる永遠の命を伝え、一人でも多くの魂を救うことである。 ケパ