たぶん平山秀幸の監督作の中では一番出来が良い。巷では「OUT」や「愛を乞うひと」などのヘヴィな題材を扱った映画を撮っていることから、彼を重厚長大なドラマの作り手だと捉える向きもあるが、私はそれは間違っていると思う。平山の本領は「学校の怪談」シリーズや「ターン」などの“ちょっと気の利いたプログラム・ピクチュア”である。つまりは“軽量級”なのだ。
その意味で本作ぐらいの映画のサイズが丁度良い。佐藤多佳子の同名小説の映画化で、二つ目の落語家と彼を取り巻く人々との人情喜劇だが、たぶん筋書きとしてはヘタだった彼が努力の末に上手くなるのだろうと思っていると・・・・その通りになる(笑)。その意味で安心して観ていられるシャシンだが、本作のキモは、そんな彼が成り行きとはいえ3人もの“弟子”を取るハメになるという設定だ。それにより映画の重要なテーマが浮かび上がってくる。
それは“しゃべることと、コミュニケートすることは別物である”ということだ。“弟子”の一人である若い女は、無愛想で超口下手であるためカルチャーセンターの“しゃべり方教室”に通っている。しかし、当然そこの講義ではテクニカルな“しゃべり方”は教えてくれても、真に相手の心に踏み込むようなコミュニケーション方法を伝授してくるはずもない。それは各自で会得するしかない事柄である。そのへんを分かっていない彼女は“しゃべり方教室”に見切りを付けて途中退席するところを、講師役の師匠の付き添いとして同席していた主人公に見咎められ、それがきっかけで“弟子入り”することになる。
あと2人の“弟子”は大阪から転校してきて、クラスメートと上手くいかないのはカルチャー・ギャップのためだと思い込んでいる小学生と、周囲に過度に気兼ねして自分の言葉を発することができない野球解説者である。
彼らに落語を教えていくうちに、主人公は自分も“弟子”たちと同様のコミュニケーション不全に陥っていることを自覚する。いくら高座で熱っぽくしゃべろうとも、それは単なる自己満足で、少しも聴衆にアピールしない。そのあたりを少しも説教臭くならず、登場人物の身の丈に合ったエピソード展開を軽妙にエピソードを積み重ねてゆく平山演出は快調だ。
主演の国分太一は敢闘賞もので、序盤の下手なしゃべりからクライマックスの堂々とした演目披露に至る主人公の成長ぶりをまったく違和感なく見せきる。師匠の伊東四朗、祖母役の八千草薫と脇を固めるベテランが実に良い味を出している。ぶっきらぼうだが実は面倒見が良い野球解説者役の松重豊、骨の髄まで“関西系のお笑い”が染みついた子役の森永悠希、性格悪そうなルックスを逆手に取ったような妙演の香里奈と、“弟子”たちに扮する役者も的確な仕事ぶりだ。
そして落ち着いた東京情緒が滲み出る腰が据わった映像の切り取り方が魅力的。若い落語家を主人公にした映画では森田芳光監督の「の・ようなもの」と並ぶ快作だと思う。