(原題:All the Invisible Children)イタリアの女優マリア・グラッツィア・クチノッタらが世界の子供たちの窮状を訴えようと、イタリア外務省やユニセフ等の公的機関に働きかけて実現したオムニバス映画。7つの国の子供たちの“現実”を、7人の監督が描き上げている。
一番インパクトを受けたのは、ルワンダのメディ・カレフ監督作品だ。貧しさ故にテロ組織に身を投じる12歳の少年。学校の爆破を命じられた彼が“本来の自分”に立ち返る瞬間を切々と描いている。もちろん、この筋書きは図式的だ。しかし、彼の置かれた立場、そして混迷を極めるアフリカ社会の現状は、シチュエーションの御都合主義を軽く圧倒してしまう。徹底した当事者意識に貫かれた本作を観れば、「ブラッド・ダイヤモンド」に関する元文科省官僚の評論家の“テロリストを悪く描いているのはけしからん”なるコメントがいかに妄言であるかが分かるだろう。
対してジョン・ウー監督による北京を舞台にした金持ちの娘と親に捨てられた少女とを対比して描く一編は、作為的に過ぎて愉快になれない。有り体に言えばお涙頂戴路線である。これは真に切迫した環境にあるルワンダと、切迫さをオブラートに包んで上辺だけの成長を為し得た中国との違いだろう。
スパイク・リーによるパートは、久しぶりにこの監督の良さが出ている。HIVキャリアになった黒人少女と、そのどうしようもない両親。しかし、そんな彼女の境遇よりもさらに辛い日々を送っているティーンネージャーたちが多数存在することが終盤で明らかにされる。あまりの悲惨さに慄然としてしまうが、それでも彼らは自らの悩みを打ち明けると共に、少しでも人生に向き合おうとしている。その健気さに目頭が熱くなるのを禁じ得なかった。リー監督はこういう地に足が付いた題材を追いかけるべきで、向こう受けを狙い過ぎているのが長いスランプの原因かとも思ってしまった。
さて、今回は日本を舞台にしたものがないのは不満だ。もちろん、日本の監督にオファーが来なかったのだろうが、邦画界ではこのようなネタを扱った作品が極少である上、それらも描写が甘かったり、はては是枝裕和監督の「誰も知らない」のような馬鹿臭い映画しかなかったりする。いくら興行的に上手くいっているとはいえ、社会的な題材に及び腰であるならば、しょせん昨今の日本映画の好調ぶりは“バブル”でしかないのであろう(暗然)。