(原題:MILK)とても感銘を受けた。アメリカで初めてゲイを公表しながら公職に就いた権利活動家、ハーヴィー・ミルクの半生を描くドラマだが、監督のガス・バン・サント自身が同性愛者ということもあり、切迫度はかなり高い。つまり、ゲイをマイノリティの一種と捉えて単に“差別はいけない!”と外部から通り一遍のスローガンを連呼している映画ではなく、真に当事者としての問題意識に直結しているのである。
そして、マイノリティの立場や権利を遵守することが、ひいては一般市民の利益に繋がることをも活写する。少数派の意見を尊重することは、多数派の不利益になることでは決してない。なぜなら、少数派だろうが多数派だろうがそれぞれが保有する“人権”は同じだからだ。時として、多数派の意見を押し通すことは全体的な人権侵害に繋がるケースが発生する。いくら多くの人々が支持する施策であろうとも、市民に負担を強いるものであっては、それは巡り回って多数派の人権をも脅かすのだ。
この映画が現時点で製作されたことはタイムリーと言うしかない。ついこの前まで経済面での権利行使を野放しにした新自由主義は、そこに“自由”という言葉が付いている以上、規制のない活発な経済活動を標榜するものだと多くの者が思って支持した。しかし、その“自由”は一部の富裕層や勝ち組の連中だけが享受できるものであり、その他の人々は“貧困に追い込まれる自由”しかないことが分かって、そのツケを払うために今や世界中が大騒ぎしている状態だ。
新自由主義が台頭したときに、人々が“自由”の名のもとに虐げられる層が発生することに少しでも思いを馳せていたならば、こんな事態にはならなかった。過度な自己責任万能論は、他者の人権を軽んずることとイコールだったのだ。
こんな状況を打破するにはどうしたら良かったのか。それは劇中のミルクがちゃんと教えてくれている。他者の痛みについて知らない、あるいは知ろうとしない態度を改めること。偏見を捨て、マイノリティも多数派も同じく社会を担っている人間であることを認識すること。そして皆が幸せになれるように、希望を持つこと。ラストに描かれる、志半ばで倒れたミルクを追悼する市民の行進は、それが不可能ではないことを高らかに謳いあげている。
ショーン・ペンは最高の演技。冒頭、いきなり若い男(ジェームズ・フランコ)をナンパするあたりの扇情的な表現力には舌を巻いたし、政治家になってからの揺るぎない信念を抱きつつ難局に対峙する存在感の大きさは申し分ない。エミール・ハーシュやジョシュ・ブローリンなど脇のキャストとも万全だ。テーマの普遍性・重大性を勘案しても、現時点で必ず観ておくべき映画であると確信する。