97年作品。「下妻物語」や「パコと魔法の絵本」などで知られる“映像派”中島哲也監督のデビュー作である。“ボクは将来オッパイの大きな女の子と結婚したいです。たとえばC.Cガールズの右から2番目のコのような・・・・”という小学4年生のたかし(日高圭智)のナレーションが入ると、画面にウェディングドレス姿の青田典子(本人)が登場し、“アナタのことはとっても好きです。でも、私、さか上がりのできない人とは結婚できないの。さようなら”と言って去って行き、ここで主人公のたかしはハッと目が覚める。この爆笑もののオープニングでイッキに観客の心をつかむ演出で、1時間13分の中編ながら、実にあなどれない快作だ。
鉄棒のさか上がりが出来ないたかしが出来るようになるまでを描くという、何ということもない題材の中に、クラスメートや彼を取り巻く大人たちの微妙な屈託やペーソスを滲ませていて飽きさせない。何よりも感心するのが、子供時代の体験が一生を左右するほど重大なものであるという視点を忘れていないことだ。子供を主人公にした映画は星の数ほどあれど、子供の性格・行動が大人になってからの生活観にどれほど影響を及ぼしているかを“真に日常的で平易なレベルで”表現している例を他に知らない。
“さか上がりが出来ない時の話なんて、大人になれば単なる笑い話さ”なんて言っても、その当時の欝屈した感情を大人になった今でも(自覚するしないは別として)引きずっていることを否定できる者はいないはず。たかしの父(岸部一徳)はムチ打ち症で稼業の電気屋を休んでいる間、子供時代の苦い経験(これもまた爆笑もの)が頭をよぎり、不安定な行動に駆り立てられる。母(菜木のり子)も今は亡き自身の母親との少女時代の切ない思い出に浸らない日はない。
たかしが“お父さんは子供の頃の事なんて忘れてるんだろ?”と尋ねると、父は“忘れないよ”とつぶやく。さか上がりが出来なくて四苦八苦する体験が、その後のたかしの人格に影響を与え、また大切な思い出となっていくであろう過程を淡々と、共感を呼ぶほどに丁寧に描く。
両親の子供時代を描くパートはノスタルジアに心が震えるような演出タッチ、そして小道具、舞台セット。たかしが直面する現在の場面は、何もない空間を活かした即物的で禁欲的な構図が印象に残る(まさに子供の目が捉えた誇張のない現実だ)。子供と大人が共通に抱く人生の疑問について考えるとき、ふと等身大の自分が見えてきて、自嘲と郷愁で胸がいっぱいになる。
随所に挿入される効果的なギャグ。特に根津甚八や石田えり、余貴美子といった豪華ゲストがトンでもない場面で登場するあたりは大笑いした。菅野よう子による音楽も素敵だ。機会があれば観て損のない佳篇である。
鉄棒のさか上がりが出来ないたかしが出来るようになるまでを描くという、何ということもない題材の中に、クラスメートや彼を取り巻く大人たちの微妙な屈託やペーソスを滲ませていて飽きさせない。何よりも感心するのが、子供時代の体験が一生を左右するほど重大なものであるという視点を忘れていないことだ。子供を主人公にした映画は星の数ほどあれど、子供の性格・行動が大人になってからの生活観にどれほど影響を及ぼしているかを“真に日常的で平易なレベルで”表現している例を他に知らない。
“さか上がりが出来ない時の話なんて、大人になれば単なる笑い話さ”なんて言っても、その当時の欝屈した感情を大人になった今でも(自覚するしないは別として)引きずっていることを否定できる者はいないはず。たかしの父(岸部一徳)はムチ打ち症で稼業の電気屋を休んでいる間、子供時代の苦い経験(これもまた爆笑もの)が頭をよぎり、不安定な行動に駆り立てられる。母(菜木のり子)も今は亡き自身の母親との少女時代の切ない思い出に浸らない日はない。
たかしが“お父さんは子供の頃の事なんて忘れてるんだろ?”と尋ねると、父は“忘れないよ”とつぶやく。さか上がりが出来なくて四苦八苦する体験が、その後のたかしの人格に影響を与え、また大切な思い出となっていくであろう過程を淡々と、共感を呼ぶほどに丁寧に描く。
両親の子供時代を描くパートはノスタルジアに心が震えるような演出タッチ、そして小道具、舞台セット。たかしが直面する現在の場面は、何もない空間を活かした即物的で禁欲的な構図が印象に残る(まさに子供の目が捉えた誇張のない現実だ)。子供と大人が共通に抱く人生の疑問について考えるとき、ふと等身大の自分が見えてきて、自嘲と郷愁で胸がいっぱいになる。
随所に挿入される効果的なギャグ。特に根津甚八や石田えり、余貴美子といった豪華ゲストがトンでもない場面で登場するあたりは大笑いした。菅野よう子による音楽も素敵だ。機会があれば観て損のない佳篇である。