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元・副会長のCinema Days

映画の感想文を中心に、好き勝手なことを語っていきます。

「グラン・トリノ」

2009-05-16 06:27:59 | 映画の感想(か行)

 (原題:GRAN TORINO )どうもクリント・イーストウッドの監督作は評価できない。褒める者も多い本作だが、私はイーストウッド扮する主人公が単にヒーローぶっているようにしか思えないのだ。現役時代はフォードの工場で働き、朝鮮戦争にも従軍したことがあるウォルト(イーストウッド)は、年寄り扱いする二人の息子や、移民が増えて治安が悪くなる一方の町の状況を嘆く毎日だ。しかも妻に先立たれ、その頑迷ぶりには拍車が掛かっている。

 ここで疑問に思うのは、いくら家族との思い出がある場所とはいえ、そんなに気に食わないのならばすぐさま引っ越せばいいのに、彼はそうしないところだ。でも、やがて隣家の中国系移民の少年と知り合ったのをきっかけに、彼は思いがけず“近所付き合い”をすることになる。何のことはない、彼は単なる寂しがりやだったのだ(呆)。

 斜に構え孤高を気取っているようでいて、実は人恋しくてたまらないヒネた奴(偽悪主義者)はフィクションの中はもちろん実生活でも頻繁にお目に掛かってきたが、そういうのはある種の愛嬌こそあるものの、底は浅い。断っておくが、別に“浅いからイケナイのだ”と言うつもりはない。浅いなりに周りの段取りを取り繕っていけば、そこそこハートウォーミングな話は出来上がるものである。しかし本作はどうしたことか、この“実は人の良い頑固オヤジ”を、失われてゆく古き良きアメリカの象徴か何かにまで祭り上げてしまっている。

 国のために身体を張ることもなく、汗水流して物作りに勤しむこともせずに、小賢しいマネーゲームで産業の空洞化が顕著になった昨今のアメリカに対するアンチテーゼのシンボルを勝手に付与させてしまっては、主人公としても昔の西部劇さながらに“カッコつけて”振る舞うしかないではないか。ウォルトの最後の行動は、ハッキリ言って必然性をまったく感じない。そもそも事件を解決するのは警察の仕事だろう。何かあるたびにああいった行動を取らなければならないとしたら、身体がいくらあっても足りない。

 いくら病気で老い先短い身とはいえ、事を荒立てることなく、余生を“近所付き合い”をより深めて静かに送った方が遙かに理に適っている。どうしてもヒーロー的行動を見せたいのならば、本作を「ダーティハリー」のパート6にしてしまった方がスッキリしたはずだ。引退したキャラハン刑事が、親しい隣人を蹂躙したギャングどもを相手に再びマグナム44を片手に大暴れするという筋書きならば、誰でも納得したと思う。

 イーストウッドは本作で映画出演を終了するという。監督として多数の賞に輝いた彼だが、俳優としてあまり賞に恵まれていなかったというのは本人としても思い残すことがあったのではないだろうか。もう一本、今度は自分以外の監督作で演技者として良い仕事を見せて欲しい。
コメント
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