(原題:MOLIERE )78年フランス=イタリア合作。17世紀フランスが生んだ偉大な劇作家モリエールこと、ジャン=バティスト・ポクランの伝記作品だ。オリジナルのテレビドラマ版は約7時間とのことだが、劇場公開されたのは短縮版である。とはいえ、これも235分という長尺であり、元々テレビ用のソフトとは思えない超多額の予算が投入されていることもあって、鑑賞後の満足度はかなり高い。
主人公ジャン=バティストは、1622年にパリの中心地で室内装飾を営むジャン・ポクランの息子として生まれる。何不自由ない幼年時代を送ったが、優しかった母が急逝した際に周囲の者たちの冷酷な振る舞いにショックを受け、人間不信に陥っていく。成長したジャン=バティストはオルレアンの大学の法科に進むが、世の中の不条理に怒り学生運動に身を投じるようになる。
ある日、官憲から逃れるために入り込んだ芝居小屋で、彼は舞台に立つ美しい女優マドレーヌに心を奪われる。これを切っ掛けにジャン=バティストは演劇にのめり込み、いつしか芝居の台本も手掛けるようになる。モリエールの作品は現在でもよく知られていて頻繁に上演されているが、その生涯の実相はポピュラーではない。その意味で、本作は資料的にも重要であると言えよう。
時代考証はかなり詰められていて、都会とはいえ衛生状態が良くないパリの町並みや、それに対比するかの如く住民たちの明るいバイタリティとか、たぶん当時はこのようなものだったのだろうという説得力が確保されている。また、そんな庶民の哀歓からモリエールの作品群が生まれてきたというコンセプトも頷けるものだ。
脚本も手掛けたフランスの先鋭的演劇集団「太陽劇団」の主宰者アリアーヌ・ムヌーシュキンの演出ぶりは目覚ましく、いくつかのシークエンスでは突出した存在感を発揮している。特に公演を勝手に中止に追い込んだ地方の有力貴族に抗議するために、全員が舞台用のコスチュームに身を包んで街中を練り歩く様子や、ヴェルサイユ宮殿の完成祝いにヴェネツィア共和国からゴンドラが雪のアルプスを越えてくるあたりの描写などは、本当に素晴らしい。
そして、喜劇作家として知られるモリエールが、実は悲劇と紙一重の次元で作品を生み出していたことにも言及している部分は多いに納得する。舞台で倒れたモリエールが運ばれて事切れるまでの描写にいたっては、演劇的手法がスクリーンを侵食してゆくスリルも味わえる。主役のフィリップ・コーベールをはじめ、ジョセフィーヌ・ドレンヌ、ブリジット・カティヨン、クロード・メルリンといった各キャストは好演。製作総指揮に大御所クロード・ルルーシュが参画していることも大きいだろう。とにかく、一見の価値はある作品である。
主人公ジャン=バティストは、1622年にパリの中心地で室内装飾を営むジャン・ポクランの息子として生まれる。何不自由ない幼年時代を送ったが、優しかった母が急逝した際に周囲の者たちの冷酷な振る舞いにショックを受け、人間不信に陥っていく。成長したジャン=バティストはオルレアンの大学の法科に進むが、世の中の不条理に怒り学生運動に身を投じるようになる。
ある日、官憲から逃れるために入り込んだ芝居小屋で、彼は舞台に立つ美しい女優マドレーヌに心を奪われる。これを切っ掛けにジャン=バティストは演劇にのめり込み、いつしか芝居の台本も手掛けるようになる。モリエールの作品は現在でもよく知られていて頻繁に上演されているが、その生涯の実相はポピュラーではない。その意味で、本作は資料的にも重要であると言えよう。
時代考証はかなり詰められていて、都会とはいえ衛生状態が良くないパリの町並みや、それに対比するかの如く住民たちの明るいバイタリティとか、たぶん当時はこのようなものだったのだろうという説得力が確保されている。また、そんな庶民の哀歓からモリエールの作品群が生まれてきたというコンセプトも頷けるものだ。
脚本も手掛けたフランスの先鋭的演劇集団「太陽劇団」の主宰者アリアーヌ・ムヌーシュキンの演出ぶりは目覚ましく、いくつかのシークエンスでは突出した存在感を発揮している。特に公演を勝手に中止に追い込んだ地方の有力貴族に抗議するために、全員が舞台用のコスチュームに身を包んで街中を練り歩く様子や、ヴェルサイユ宮殿の完成祝いにヴェネツィア共和国からゴンドラが雪のアルプスを越えてくるあたりの描写などは、本当に素晴らしい。
そして、喜劇作家として知られるモリエールが、実は悲劇と紙一重の次元で作品を生み出していたことにも言及している部分は多いに納得する。舞台で倒れたモリエールが運ばれて事切れるまでの描写にいたっては、演劇的手法がスクリーンを侵食してゆくスリルも味わえる。主役のフィリップ・コーベールをはじめ、ジョセフィーヌ・ドレンヌ、ブリジット・カティヨン、クロード・メルリンといった各キャストは好演。製作総指揮に大御所クロード・ルルーシュが参画していることも大きいだろう。とにかく、一見の価値はある作品である。