元・副会長のCinema Days

映画の感想文を中心に、好き勝手なことを語っていきます。

藤倉良「環境問題の杞憂」

2007-06-12 06:43:14 | 読書感想文
 新潮社新書の中の一冊だ。こりゃヒドい本である。環境問題が声高に叫ばれている現状だが、その中に“非・科学的”な見方が蔓延しているのではないか・・・・といったことを科学知識で冷静に捉え直そうという意図は大いに良い。しかし、論旨は終始蛇行運転で要領を得ないままの言い回しが延々と続くのみ。具体的な対策など、何も提示しない。いわば酒の席での与太話を採録したようなものだ。

 たとえば、日本は“健康的”な国だと筆者は言う。なるほど、データだけを見れば諸外国よりは“健康的”なのかもしれない。ところが作者の考察はそこで終わっている。我が国が今後どうあらねばならないか、全然提案していない。さらに彼はドイツとの比較において、環境対策に関しては日本はそうひけを取らないことを示し、“ドイツは環境大国だ”と持ち上げる人々(どの程度いるのか知らないが ^^;)を揶揄する。はっきり言って、読む側はどこの国が環境に優しいかどうかなんて興味はないし、そしてどの国が環境に“優しくない”のかは、とっくの昔に知っている。

 そして得意満面で披露する“環境問題は費用対効果が云々”という経済ネタも、たぶん経済学の文献なんて一冊も読んでいないであろう単なるドンブリ勘定に終始。環境問題に関心のある層は、現状の科学データばかり追っているわけではない。自分たちの住む場所がどうなっているのか、そして将来はどうなるのか、そんな不安を皮膚で感じているのである。少なくとも、地方が疲弊して山里が荒廃してゆく様子を見て“科学的には環境問題の範囲ではない”と無視する杓子定規な“学者バカ”の感覚とは対極にあるのが一般庶民の感情なのである。

 そもそも作者にとって誤算だったのは、アカデミー賞を賑わせた「不都合な真実」が全国公開され、かなりの支持を集めたことである。手持ちの知識を断片的にひけらかすだけの本書より、地球温暖化がどんなに深刻かを力業で説明するゴア元・副大統領の方が数段説得力がある。ヘタすりゃあの映画を観た者の方が、この本の作者より詳しくなったりして(笑)。とにかく“環境問題に取り組むことは経済成長を阻害しない!”というゴアの“正論”の前には、本書の作者の小賢しいドンブリ勘定など消し飛んでしまうのは確かだ。

 読み終わって感じるのは、元官僚でもある作者の“日本は環境は悪くないですよ”という現状に対する無定型な阿諛追従だ。本気でそう思っているのなら、環境庁にいたこともある自分のキャリアは“すべて無駄でした”という自己批判から始めるべきではないか。作者がこんな内容の講義を大学でやっているとすれば、聴講させられる学生はたまったものではないだろう。
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「しゃべれども しゃべれども」

2007-06-11 17:03:55 | 映画の感想(さ行)

 たぶん平山秀幸の監督作の中では一番出来が良い。巷では「OUT」や「愛を乞うひと」などのヘヴィな題材を扱った映画を撮っていることから、彼を重厚長大なドラマの作り手だと捉える向きもあるが、私はそれは間違っていると思う。平山の本領は「学校の怪談」シリーズや「ターン」などの“ちょっと気の利いたプログラム・ピクチュア”である。つまりは“軽量級”なのだ。

 その意味で本作ぐらいの映画のサイズが丁度良い。佐藤多佳子の同名小説の映画化で、二つ目の落語家と彼を取り巻く人々との人情喜劇だが、たぶん筋書きとしてはヘタだった彼が努力の末に上手くなるのだろうと思っていると・・・・その通りになる(笑)。その意味で安心して観ていられるシャシンだが、本作のキモは、そんな彼が成り行きとはいえ3人もの“弟子”を取るハメになるという設定だ。それにより映画の重要なテーマが浮かび上がってくる。

 それは“しゃべることと、コミュニケートすることは別物である”ということだ。“弟子”の一人である若い女は、無愛想で超口下手であるためカルチャーセンターの“しゃべり方教室”に通っている。しかし、当然そこの講義ではテクニカルな“しゃべり方”は教えてくれても、真に相手の心に踏み込むようなコミュニケーション方法を伝授してくるはずもない。それは各自で会得するしかない事柄である。そのへんを分かっていない彼女は“しゃべり方教室”に見切りを付けて途中退席するところを、講師役の師匠の付き添いとして同席していた主人公に見咎められ、それがきっかけで“弟子入り”することになる。

 あと2人の“弟子”は大阪から転校してきて、クラスメートと上手くいかないのはカルチャー・ギャップのためだと思い込んでいる小学生と、周囲に過度に気兼ねして自分の言葉を発することができない野球解説者である。

 彼らに落語を教えていくうちに、主人公は自分も“弟子”たちと同様のコミュニケーション不全に陥っていることを自覚する。いくら高座で熱っぽくしゃべろうとも、それは単なる自己満足で、少しも聴衆にアピールしない。そのあたりを少しも説教臭くならず、登場人物の身の丈に合ったエピソード展開を軽妙にエピソードを積み重ねてゆく平山演出は快調だ。

 主演の国分太一は敢闘賞もので、序盤の下手なしゃべりからクライマックスの堂々とした演目披露に至る主人公の成長ぶりをまったく違和感なく見せきる。師匠の伊東四朗、祖母役の八千草薫と脇を固めるベテランが実に良い味を出している。ぶっきらぼうだが実は面倒見が良い野球解説者役の松重豊、骨の髄まで“関西系のお笑い”が染みついた子役の森永悠希、性格悪そうなルックスを逆手に取ったような妙演の香里奈と、“弟子”たちに扮する役者も的確な仕事ぶりだ。

 そして落ち着いた東京情緒が滲み出る腰が据わった映像の切り取り方が魅力的。若い落語家を主人公にした映画では森田芳光監督の「の・ようなもの」と並ぶ快作だと思う。
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「リリイ・シュシュのすべて」

2007-06-10 22:22:53 | 映画の感想(ら行)

 2001年製作。岩井俊二作品はテーマやアプローチによりはっきりと二つの系統に分けられるが、出来がいいのは「Love Letter」や「四月物語」などのハートウォーミング路線の作品であり、出来が悪いのは「PICNIC」や「スワロウテイル」などの知的スノッブ風自己満足路線である(もちろん、私と正反対の見解を持つ人も少なくないことは認識している)。この作品はどうかというと、技巧と作品の雰囲気を見る限り後者の系統に属するが、主題と方法論は従来の岩井作品にはなかったものだ。しかもセンセーショナリズムに満ちたインパクトは昨今の日本映画の中では図抜けて高く、今までのハートウォーミング路線の作品とはまったく違う感銘を観る者に与えてくれる野心作である。

 栃木県の田舎町を舞台に、カリスマ的な人気を誇る女性歌手リリイ・シュシュに心酔する男子中学生の主人公と、そのクラスメートたちの日常を追うことにより思春期の危うさを描き出すこの作品の中で何より瞠目させられるのは、とてつもなくリアルな素材の切り取り方である。大人たちの目を隠れて展開される中学生たちの窃盗や傷害、イジメや援助交際などのマイナス的モチーフが、凡百の学園ドラマにおける“単なる記号”とは違う格段の切迫性を持って観客に突きつけられる。その実体感たるや現実以上に現実的、まさにシュールなほどリアルだ(深作欣二の「バトル・ロワイアル」など、すでに忘却の彼方 ^^;)。

 たとえば、優等生だった主人公の友人は、夏休み中の旅行で水難事故に遭遇してから人が変わったように生活が荒れ出し、二学期には札付きのワルになっている。もちろん、後から家庭環境や父親の事業の失敗といったありがちな理由が示されるのだが、そんな背景がなくとも模範生から不良への変貌が即物的な説得力を持ってしまうのは、心の揺れを身体で制御できないというこの世代特有の生理をあざといまでにヴィヴィッドに描いているからに他ならない。理不尽な暴力と意味不明の苦悩に苛まれながらも、彼等は終わりなき日常に呑み込まれてゆくしかない。

 通常、そんな彼等を「成長」へと導くはずの大人達は、この映画では実に影が薄い。担任の女教師は少女のように頼りないし、主人公の母親の再婚相手は子供に甘いだけ。みんなガキにおもねているか、自分のことにしか関心がない。しかも作者はこれを“大人は判ってくれない”とばかりに陳腐で青臭い対立的図式には持っていかない。この世代にとって、大人はクソでしかないことを最初から見切っている。同じく、その存在感で子供を圧倒し征服欲に駆り立てるはずの「大自然」でさえもここでは無力だ。主人公たちが訪れる沖縄の自然は、美しいけれどしょせんは鬱陶しいものでしかない。“大きな物とぶつかって成長する”という決まり文句は、この世界ではもはや“お題目”に過ぎないことを諦観しているかのようだ。

 さらに悪いことに、一昔前までは嫌々ながらでも「他者」と対峙しなければならない状況に追いやられていた彼等は、ネット上のヴァーチャル空間という、絶好の逃げ込み場所を得るに至っている。映画は、リリイ・シュシュのファンサイトの掲示板に展開される参加者のやり取りを引用しつつ進んでゆくが、同じくネット上の会話を大きくドラマに取り入れた森田芳光監督の「(ハル)」とはまったく違い、会話の内容が空疎かつ無意味、そして自己陶酔的に過剰である。

 岩井監督の冷静なところは、これを“殺伐とした日々を送る彼等でも、ネット上ではこんなに感性豊かに自己表現をしている”といった似非リベラル的な理想論にしていないこと。オンラインだろうがオフラインだろうが、不完全な自我は迷走するしかないのだ。ラスト近くでの、行き詰まった主人公達がネット上で憑かれたように言葉を吐き連ねる様子は虚しく寒々しい。それが何の解決にもならないことに薄々気付いていながらも、そうするしかない“出口なし”の状態に落ち込むだけの彼等を無力な我々は見つめるしかないのだ。

 この映画は好き嫌いがハッキリ分かれる。明るく楽しい十代を送った者は絶対受け付けないだろうし、題材自体に興味のない者もいるだろう。そして、数多く見られる作劇上の欠点(決して短くはない上映時間や尻切れトンボの結末)に我慢できない映画ファンも少なくないはずで、特にデジカムを使った沖縄ロケは画面が汚いし不必要に長く、編集の不徹底さを私も指摘したいところである。

 しかし、それらを勘案しつつも、この映画の存在感は屹立していると言いたい。少しでも鬱屈した青春時代を送った者にとって(私も、今までの人生で一番暗かったのが中学生時代だった)この映画の切り口は、まるで昔の傷跡がパックリと口を開けたような、飛び越えたはずの地面の亀裂に再び足を取られたような痛みをもって迫ってくる。ただしそれは不快感ではなく、観る者に心の深遠に改めて向き合うことを要求するようなポジティヴさを伴っている。

 映像(デジカム場面を除く)と音楽は素晴らしいのひとこと。夢のように美しい田園地帯と繰り広げられるドラマの残酷さとが絶妙のコントラストだ。特に抜けるような青い空を滑るようにして舞う競技用カイトと、それに続く惨劇を並列して描くシークエンスには泣きたくなった。校内の合唱大会で複雑かつ絶妙なアレンジで歌われる「翼をください」にも泣きたくなる。岩井監督の絵と音に対するセンスは世界有数だと思う。

 柳町光男の「十九歳の地図」や相米慎二の「台風クラブ」などに匹敵する異形の秀作だ。やっぱり岩井監督はその仕事ぶりをしっかり追う価値のある作家だと思う。
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「ツォツィ」

2007-06-09 06:40:57 | 映画の感想(た行)

 (原題:TSOTSI)アカデミー外国語映画賞を受賞したイギリス=南アフリカ合作で、その評価もダテではないと思わせる力のこもったシャシンだ。

 ヨハネスブルグのスラム街に暮らす若者ツォツィ(プレスリー・チュエニヤハエ)は強盗グループのリーダーで、街の暴力団にも顔が利くいっぱしのワル。そんな彼が盗んだ金持ちの車の中に乳児を発見し、世話をするハメになるという筋書きだが、いくら赤ん坊とはいえ他人の子供を面倒見ようとすること自体、彼が更生できる可能性を示しており、予想通り映画はその線に沿って進む。

 いわば構成は単純なのだが、これがかなりの説得力をもって迫ってくるのは、登場人物を取り巻くシビア極まりない情勢ゆえである。

 アパルトヘイト政策は廃止されたものの、同じ黒人の間にも大きな格差が生まれ、差別社会はなくなるどころか、より深刻化している。ツォツィが子供の頃に住んでいた町はずれの土管置き場に赤ん坊を連れて行くシーンは前半のハイライトで、そこには今も身寄りのない子供達が住んでおり、主人公が彼らに向かって“そこの土管がオレの住処だった”とつぶやくシーンには胸が締め付けられた。

 他にもツォツィの悲惨極まりない子供時代の回想場面など、もはやこの世には神も仏もないと思わせるような描写が続く。しかし、だからこそツォツィの中にわずかでも残っているピュアな部分が強調されてくるのだ。

 赤ん坊の世話を引き受ける近所に住む若い未亡人や、彼がいつも駅で会う車椅子のホームレス、勉強熱心なのに境遇が悪くてチンピラに身をやつしているツォツィの相棒などの脇のキャラクターも光っている。特に足の悪いホームレスと主人公の会話は本作のキーポイントで、人はどうやれば過ちから立ち直れるのか、“善く生きる”とはどういうことか、そんな平易かつ重要なテーマが無理なく示される。

 ギャヴィン・フッドの演出は取り立てて才気走ったところはないが、ドラマ運びは堅実そのもので、弛緩した部分や回りくどい描写がほとんどない。クワイト(Kwaito)と呼ばれる、南アフリカで流行しているポピュラーミュージックを中心とした劇中音楽も、素晴らしく効果的だ。
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「クリムゾン・タイド」

2007-06-08 06:47:37 | 映画の感想(か行)
 (原題:Crimson Tide)95年作品。ロシアで極右勢力が核基地を掌握。アメリカと日本に向けてのミサイル発射のスタンバイ体制についた。これに対しSLBM登載のアメリカ原潜アラバマが出撃。発射準備の指令が届くが、敵原潜と交戦状態となり、深く潜行しすぎたり魚雷攻撃で通信機が故障したりで肝心の発射命令(あるいは中止命令)となるはずの次の通信が途中で切れてしまう。たたき上げで実戦タイプの艦長(ジーン・ハックマン)はこれを無効とし、発射ボタンを押そうとする。対して士官学校出の若手エリートの副官(デンゼル・ワシントン)は指令が確認できるまでは絶対発射すべきではないと主張。乗組員全員を巻き込んでの葛藤が始まる。

 さて、私はこの設定だけで唖然呆然になった。戦闘のダメージや事故で重要な通信が途切れることは、フツーの感覚で考えると十分有り得ることではないか。それを勝手に“こうだ”と決めつけて突っ走る艦長なんてほとんど軍法会議ものじゃないのか? しかもこの場合、いったんやっちゃうと世界の終わりになるほどの重大事だ。まったく何考えてんだ。

 なるほど、ハックマンは融通のきかない好戦家ぶりをうまく体現化している。でも、戦いが好きだからこういう無茶をしていいと、観客が納得すると思ってんのか。たとえ好戦家でも、スタンドプレイに走らせないのが軍規ってものじゃないのか。まさかアメリカ軍はこういう低レベルのトラブルにさえ対応していない命令体系しか持っていないのだろうか。もしそうならオソロシイことだ(ラストのクレジットで、次の年から発射命令は大統領がすることになった、と出ているけどね)。

 前提からしてそうなので、映画自体も居心地が悪くて仕方がなかった。D・ワシントンはいつも通り正義漢を熱演しているが、ステレオタイプの域を出ない。トニー・スコットの演出は相変わらず。ポリシーはないが観ている間は退屈しないようなカロリーの高さ(?)を誇っている。展開に迫力はあるし、ハンス・ジマーの音楽もいいし、SFXは万全だし、音響効果も言うことがない。しかし、よく考えるとこの“両極端の二項対立”という図式は「駆逐艦ベッドフォード作戦」や「ケイン号の叛乱」みたいに昔からあって、新鮮味は薄いと言わねばなるまい。

 観る価値ないとは言わない。見所もあるんだが、深みはない。見せ物としての面白さだけで、忘れるのも早い映画だと思う。
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「あしたの私のつくり方」

2007-06-07 06:46:47 | 映画の感想(あ行)

 転校した女生徒と周囲とのコミュニケーションを題材としているあたり、どうしても市川準監督の劇場用映画デビュー作「BU・SU」を思い出さずには居られない。しかし出来は「BU・SU」よりも落ちる。理由は明らかで、素材として携帯電話を使用しているからだ。

 「BU・SU」が作られた87年には携帯メールなんて存在しない。相手の心に踏み込むには、実生活において相手にぶつかっていくしかない。もちろん“超えられない壁”が行く手を阻む。でも、その障害をひとつひとつ“具体的に”乗り越えていくことに説得力と観る者の感慨が生まれる。断っておくが、小道具としての携帯メールそのものを否定しているわけではない。ただ、こういう筋書きのドラマではテーマへのアプローチがどうしても一つ余分に手順を踏んでいるようで、もどかしいのだ。

 新しい学校に不安を持っている転校生に匿名でアドバイスする主人公のメールの内容が“奇数人のグループを見つけて合流する”だの“登下校時はさりげなく真ん中をキープする”だのといった、はっきり言って“鼻で笑っちゃう”ような下世話なことばかり。それも当たり前で、そんなアドバイスをする主人公にしたところが、ネット上に書いてあるハウツー本の内容みたいな底の浅い事柄を得意満面で書き連ねているに過ぎない。

 もちろん終盤には主人公のやり方の浅はかさが露呈するのだが、話がネットを介した“オンライン”ではなく最初から“オフライン”であれば段取りとして簡単に済むし、すぐさま次のステップに移れるはずだ。某携帯電話会社がスポンサーの映画であり、全編ケータイの機能の紹介みたいになっているところも閉口するが、逆にケータイでのコミュニケーションの不完全ぶりを明示しているのは皮肉だ。デジカムによる荒い映像も大いに盛り下がる。

 それでも途中で席を立たずに最後まで観られたのは、ヒロイン役の成海璃子に尽きる。「神童」に続いての主役登板だが、14歳ながら小学生から高校生まで演じきるパフォーマンス能力、整ったアダルトな顔立ちと物腰で、ヘタをすると大学生やOLまで演じられそうな存在感。彼女に比べれば共演の前田敦子(彼女が成海より年上らしいが)が頼りないガキんちょに見えてしまう。それどころか大人の共演者さえも影が薄い。唯一タメを張っているのは田口トモロヲぐらいだ(笑)。

 結論として、たぶん登場人物と同世代の若者にはアピールするが、手練れの映画ファンにすれば青臭さが気になるといったシャシンだろう。主演が成海じゃなかったらあまり観る価値はない。
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FOSTEXの新作スピーカーを試聴した。

2007-06-06 07:59:50 | プア・オーディオへの招待

 何度か足を運んでいる福岡市のオーディオショップ「吉田苑」にて、FOSTEXのスピーカーG-1300を試聴した。FOSTEXは日本のメーカーで、歴史は結構古い。スピーカーを自作してしまうほどのコアなマニアの間では、スピーカーユニットの製造元として知られるし、完成品のシステムとしても、ハイエンド機はNHKのスタジオモニターとして採用されている。G-1300は同社が一般ユーザー向け(とはいっても定価はペアで315,000円だが ^^;)に売り出したスピーカーシステムで、すでに専門誌などの評価は高い。どんな感じで鳴るのか興味津々だった。

 実際聴いてみた感想は、まず“J-POPにぴったりのスピーカー”ということだ。明るく伸びやかで、中高域が実に清々しく響く。ミニサイズなのでどっしりとした低音は出てこないが、どうせJ-POPのディスクには低音なんてロクに入っていないからこれで丁度良い。もちろん、J-POPを聴くにしては高価だが、世の中にはJ-POPを中心に聴くにせよ見栄えの良いシステムを御入り用な層、つまり“形から入る”というユーザーもけっこういて、そういうセグメント(?)には打って付けの商品である。何しろピアノ鏡面仕上げでルックス抜群。小振りでリビングに置いても圧迫感を覚えないし、インテリア面も申し分ない。一般ピープルの所有欲をくすぐる製品だ。

 もちろん、J-POPだけではなく小編成のクラシック(特にバロック)も気持ちよく鳴らすだろうし、ヨーロピアン・タイプのジャズにはかなりのパフォーマンスを発揮する。そういうジャンルが好きな人にとっては購入対象になろう。

 ただし、私個人としてはあまり食指は動かない。もとよりルックスにあまり気を遣わず(笑)、音と使い勝手がすべてで、外見が鏡面仕上げだろうが塩ビ仕上げだろうがまったく関係のない私にとって、確かに物理特性の優秀さによるスッキリとした鳴りっぷりは認めるものの、クセがなさすぎるこの製品は、イマイチ聴いていて面白くない。この価格帯ならば、海外製品にもっと個性的で楽しい音を出す機種があるだろう。

 それよりも今回興味を持ったのは、駆動するアンプだ。SOUL NOTEのda1.0という機種を繋いでいたのだが、これはかなりのスグレモノだと思った。SOUL NOTEは新しい会社ながら、某有名国内メーカーに勤めていたエンジニアが立ち上げたブランドなので、音造りも堂に入っている。デジタルアンプにしてはかなり温度感の高い音、つまり有機的な力感をメインにしており、しかもデジタルらしい分解能の良さもクリアしている。これは欲しいと思った。

 あと、専門誌などでは高い評価を受けている米国NuForce社のデジタルアンプIA-7Eも試聴したが、これがまったくダメ。サラサラとした透明感の高い音で肌触りが良いが、音楽を聴かせるツボがない。パッションあふれるはずの音楽を高品位な効果音みたいに小綺麗に流すだけでは、聴いていて楽しいはずがないのだ。

 それにしても、デジタルアンプが没個性で陰影に乏しいという評判はすっかり過去のものになった感がある。数年後に実家のメイン・システムのアンプを更改する予定だが、選択肢が増えるのは嬉しい限りだ。
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「スパイダー 少年は蜘蛛にキスをする」

2007-06-05 06:45:24 | 映画の感想(さ行)

 (原題:Spider )2002年作品。精神を病んだ男が、母親の死についての記憶をたどっていくうち、意外な真実が浮かび上がっていくという怪異譚。デイヴィッド・クローネンバーグ監督作品としては「戦慄の絆」や「M・バタフライ」と同様“非・ドロドロ系”に属する映画ながら、屈折度は「イグヂステンス」などを凌ぐ。

 何よりレイフ・ファインズの筋金入りの異常演技が素晴らしい。完全にイッちゃってる目つきといい、意味不明の文字(らしきもの)を一心不乱に小さなノートに書き付けている様子といい、常人とは思えない服装といい、誰が見ても立派なキチ○イだ。「レッド・ドラゴン」でのパフォーマンスなど、彼にとっては“朝飯前”の仕事でしかなかったことが良くわかる。

 主人公が劇中で振り返る“自分の半生”とやらの疑わしさは、それが彼自身の回想というフィルターを通して描かれること自体で早々と底が割れてしまうが、軽症の精神病患者専用のドミトリーになぜか主人公みたいな“凶悪な過去を持つ者”がいるという、このドラマの設定自体も怪しいものだ。要するに、何が本当で何がウソなのか、観客自身も迷路に迷い込んでマゾヒスティックな隔靴掻痒感を味わおうという、そういう映画なのである。

 主人公の母役にミランダ・リチャードソン、父はガブリエル・バーンという配役も実にウサン臭くて良い。観て楽しい映画ではないが、好事家には受け入れられよう。
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「ザ・シューター 極大射程」

2007-06-04 06:48:14 | 映画の感想(さ行)

 (原題:Shooter )一見すれば脳天気なハリウッド製活劇編である。エチオピアでの軍事作戦中に幹部から最前線に置き去りにされ、戦友も失った元米海兵隊の凄腕スナイパーである主人公が、退役して隠遁生活を送っていたところ軍関係者からの“大統領狙撃計画が発覚したので、参考のためキミならどうするかシミュレーションしてほしい”という眉唾物の提案にホイホイと乗っかり、予想通りの裏切りにあって必死の反撃を開始する・・・・という設定自体が脱力だ。

 通常なら、そんな怪しいオファーなんか受けないか、たとえ受けざるを得ない状況であっても、途中から逃げ道ぐらい作っておくものだろう。それを“愛国心”なんぞを吹き込まれただけで危ない橋を渡ってしまうという筋書きは安易に過ぎる。よくそれで臨機応変ぶりが不可欠な狙撃手なんかやってられたものだ・・・・と思う間もなく、至近距離から2発の銃弾を食らっても走って脱出し、格闘シーンもこなし、果ては車を盗んで長距離ドライブと洒落込むに至っては、呆れて物も言えない。

 さらに彼に同行するFBIの新米捜査員も、最初は弱っちくて“真っ先に死んで当然のキャラ”のはずが、短期間の訓練で主人公と対等なパートナーシップを結ぶほど“成長”してしまう。活劇の段取りも不自然な点が多く、特に後半の雪山での立ち回りなど、主人公がいつああいう具合に待機できたのか、まるで不明。元戦友の妻に助けられるエピソードも御都合主義の極みだ。アントワーン・フークアの演出は「ティアーズ・オブ・ザ・サン」と同じく行き当たりばったりで、骨太なドラマツルギーとは無縁のようである。

 では観る価値はないかといえば、そうでもない。個々のアクション場面はすこぶる派手で少々のプロットの不手際を忘れさせてしまうし、何より事件の黒幕が単に軍上層部と政治家の結託だけではなく、国際社会の裏側に綿々と流れている“あるトレンド”であることを明確に指摘しているのは大きい。よく考えれば「ナイロビの蜂」や「ブラッド・ダイヤモンド」等と共通のヘヴィな題材を扱っているのだ。この(申し訳程度かもしれない)問題意識が、脳天気映画の“底辺”から、ほんの少しグレードを引き上げているとも言える。

 マーク・ウォルバーグは熱演だが、まあいつもの通り(笑)。それよりもパートナーに扮するマイケル・ペーニャ、悪役は珍しいダニー・グローバー、ヒロイン役のケイト・マーラなど、脇のキャストが印象的だった。
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「愛と精霊の家」

2007-06-03 07:53:55 | 映画の感想(あ行)
 (原題:The House of The Spirits)93年ドイツ=デンマーク=ポルトガル合作。何と言っていいのだろう。確かに考えて作られており、存在感のある作品ではあるのだが、この居心地の悪さ。「ペレ」(87年)「愛の風景」(90年)でカンヌ映画祭2連勝のビレ・アウグスト監督による、南米チリの現代史をバックに大農場主の一家を描く大河ドラマである。

 1920年代、富豪の娘クララは姉の婚約者エステバンに好意を抱いていた。超能力を持つクララは姉が死ぬことを予知するが、どうしようも出来ない。そのため彼女は姉が死んだのは自分のせいだと思い込み、口をきくことをやめる。悲しみに暮れるエステバンは、それを忘れるかのように働き、裸一貫から大農場を興す。彼はやがて成長したクララと再会し、結婚する。娘ブランカが生まれ、幸せな日々が訪れるのもつかの間、同居していた姉フェルラとクララの同性愛的な親密さに嫉妬したエステバンは、姉を追い出す。保守党議員として政界に進出した一家の主を待っていたものは左翼勢力の台頭や軍部の独走といった逆風ばかり。ブランカが労働運動のリーダーと恋仲になるに及び、一家は激しい時代の波に呑み込まれていく。

 エステバンに扮するのはジェレミー・アイアンズ、クララはメリル・ストリープ、フェルラはグレン・クロース、ブランカにウィノナ・ライダー、ほかにヴァネッサ・レッドグレーブやアントニオ・バンデラス、アーウィン・ミューラー=スタールなどが顔を揃える、近来まれに見る豪華キャスト。音楽担当のハンス・ツィマーをはじめ、スタッフも凄いメンバーだ。

 頑迷な父親、封建主義的な領主、それに対する民衆運動、身寄りの無い私生児がドラマの鍵を握る点などなど、過去のアウグスト作品に共通するモチーフが数多く出てくる。力強いドラマ運びや肯定的スタンスも健在だ。アウグストは北欧出身であるためか、南米の作品にありがちの暑苦しさ(?)もない。

 しかし、このキャスティングではマトモな映画作りをしろという方が無理だ。寝たきりのエステバンの母親の、異様に太った造形は北欧リアリズムから一気にフェリーニ的寓話の世界に突入する。第一、ストリープとクロースが義理の姉妹役なんて、考えただけでもおぞましい(笑)。典型的イギリス紳士のアイアンズの娘が、いかにもイタリア系のW・ライダーなんて・・・・。超能力を扱ったり、悪霊祓いみたいなクロースの衣装とお嬢様風いでたちのストリープ。インディオの息子である労働運動家がなんでラテン系のバンデラスなのか。オカルト風描写も目立ったりして、こりゃ「精霊の家」というより、「アダムス・ファミリー」に近いぞ。

 それでも過剰な演技合戦を避けるため、クロースを早めに死なせ、ストリープには中盤まで口をきかせない。アイアンズにも「戦慄の絆」みたいな演技をさせていない。しかし、俳優それ自体の強すぎる個性は消えるわけではなく、外見のハデさにもかかわらず“自然な演技をしなきゃ”という無理な思い込みが登場人物の極端な不自然さを煽っている。観ていて居心地が悪いのはそのせいだろう。

 この物語に有名スターはいらない。出来れば、アウグストは製作総指揮に回って、監督は地元の力のある人材を起用した方がよかった。原作のイザベル・アジェンデは、軍事クーデターで死んだアジェンデ大統領の姪である。チリの歴史を描く格好の題材を映画化した結果がこれでは、原作者も納得しないだろうと思うが・・・・。
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