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元・副会長のCinema Days

映画の感想文を中心に、好き勝手なことを語っていきます。

「俺たちの血が許さない」

2011-05-18 06:37:31 | 映画の感想(あ行)
 昭和39年の鈴木清順監督作品。松浦健郎の原作を竹森竜馬、細見捷弘、伊藤美千子らが脚色。ヤクザの抗争に倒れた父親を持つ兄弟の、カタギになりきれない悲運を描くアクション編である。

 内容はよくある“兄弟仁義もの”(?)なんだけど、途中経過をブッ飛ばしたような唐突なシークエンスの繋ぎはさすが“清順流”か。特に主演の二人が車の中で話し合うシーンでは、いつの間にか車が海の上を走っているかのごとき描写がされており、まさに開いた口がふさがらない(笑)。

 弟に扮する高橋英樹は同じ清順作の「けんかえれじい」の延長線上にあるお気楽演技だが、兄を演じるニヒルな小林旭がカッコいい。悪役の小沢栄太郎もイイ味出していた。
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「キラー・インサイド・ミー」

2011-05-17 06:40:47 | 映画の感想(か行)

 (原題:The Killer Inside Me)やはりマイケル・ウィンターボトムは三流の監督だ。この作品も実に底が浅く、薄っぺらで、羽根のように軽い。どうしてこんな出来の悪い演出家の元にコンスタントに仕事が回ってくるのか理解出来ないが、まあ、そこは業界の事情というものがあるのだろう(暗然)。

 1950年代の西テキサス。セントラルシティなる田舎町で保安官助手をしているルー・フォードは、真面目な人物として通っていた。ある日、若い売春婦を現行犯で検挙しようと現場に向かった彼は、粗暴で口の悪い彼女の態度にカッとなり、荒々しくレイプしてしまう。これがきっかけで彼の心の中にあった暴力衝動が目を覚まし、歯止めの効かないバイオレンスの嵐に巻き込まれていくという筋書きである。

 要するに、いくら物腰が柔らかく誰からも親しまれている人間でも、腹の中ではロクなことを考えていないという、ありがちなパターンを踏襲しているわけだ。もちろんそれがイケナイというわけではなく、うまく段取りを整えればそれなりの成果は上がる。しかし、この映画は何の工夫もされていない。陳腐で図式的な内面変化のスキームが、これまた退屈な主人公のモノローグによって語られるのみ。

 ここがこうだからこのように殺意を抱きました・・・・という、まるで小学生の作文のような低レベルの叙述が淡々と続くだけだ。申し訳程度にルーの子供の頃のトラウマも紹介されるが、その程度ではまるで物足りない。

 それでも演じる側のヴォルテージが高ければ観客は納得出来るのだが、ルーに扮するケイシー・アフレックをはじめキャストには十分な演技指導が成されていない。どいつもこいつも表面的な小芝居に終始し、ピカレスク映画らしい凄味もドス黒さも皆無だ。こんな調子で映画が続いた挙げ句、作劇を放り投げたような終幕を見せられるに及んでは、出るのは溜め息だけである。

 若い娼婦を演じるジェシカ・アルバは、もう少し大胆なシーンがあってもいいと思うのだが、まるで煮え切らない演技に終始。ルーの恋人役のケイト・ハドソンに至っては、しばらく見ないうちに不用意に太っていて、おまけに妙にオバサン臭くなっているのには脱力した(たとえそういう役柄だからと言われても、萎えてしまう ^^;)。ビル・プルマンやネッド・ビーティなど他のキャストも精彩を欠く。

 原作はノワール小説の代表作と言われるジム・トンプソンの「おれの中の殺し屋」だが、私は読んでいない。ひょっとしたら原作は主人公のキャラクターが良く描けているのかもしれないが、少なくともこの映画版はダメだ。観なくても良い映画である。
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「助太刀屋助六」

2011-05-16 06:35:57 | 映画の感想(さ行)
 岡本喜八監督が2001年に撮った作品。ひょんなことから仇討ちに巻き込まれ助太刀を買って出たことが病みつきとなり、以来、助太刀屋稼業に精を出している男の奇妙な冒険を描く。

 出来は可もなく不可もなし。フツーの時代劇である。目玉は終盤の助六VS悪代官一味のゲリラ戦。一人で大勢を相手に神出鬼没の闘いを挑む主人公の姿は痛快とは言えるものの、舞台設定の地理的背景がよくわからず、イマイチ盛り上がらない。助六を探しに出かけた役人たちがいつの間にか消えてしまったのにも呆れた。

 全体的に上映時間が短いわりに薄味なのは、元々40分強のテレビ時代劇(69年製作)を無理矢理引き延ばしたせいかもしれない。

 そして、主人公が24歳だという設定では真田広之は老けすぎ。まあ、これは身体能力を加味したキャスティングだとして目をつぶるにしても、村田雄浩と鈴木京香が主人公と同世代というのは問題アリだ。特に鈴木京香がおぼこ娘なんて大笑い。もっと他の若い俳優を持ってくるべきであった(暗然)。
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「トスカーナの贋作」

2011-05-15 06:59:54 | 映画の感想(た行)

 (原題:Copie Conforme)わくわくするほど面白い。本作のテーマは“人生における真実とは何か”ということだ。まさに大上段に振りかぶったような主題であり、愚直に正面から取り組もうとすれば鼻持ちならない結果に終わるようなネタだが、巧妙な設定と卓抜な脚本さえあれば、かくも味わい深い作品に結実するのである。

 イタリアの南トスカーナを訪れた英国の作家(ウィリアム・シメル)が、現地で美術商を営んでいるフランス人女性(ジュリエット・ビノシュ)と偶然知り合う。ありふれた出会いのように見えたが、二人で立ち寄ったカフェの店主に夫婦と勘違いされてから、様子が変わってくる。何と彼らは周囲と調子を合わせるように夫婦を演じ始めるのだ。最初は冗談のつもりだったが、いつの間にか夫婦の会話そのものとなってしまう。

 二人とも、配偶者には恵まれていない。特に女は生意気盛りの男の子を抱えるシングルマザーでもある。幸せな家庭生活を夢見ていたはずなのに、どこをどう間違ったのか。だが、そんな悩みは“個的なもの”なのだろうか。実は、自分のケースは決して“特殊なもの”ではないのだ。なぜなら、見ず知らずの者を相手に夫婦を演じられてしまうのだから。

 女は男の顔を見て“あなたは髭を一日おきにしか剃らない。結婚式の日にも髭を剃ってこなかったんだから呆れるわ”と言う。対して男は“そういうお前はいつも機嫌が悪い。俺が疲れて眠ったからって、それがどうした”と返す。パーソナルな話題だと思ったら決してそうではなく、誰にでも当てはまる事象に過ぎなかったりする。ならば自分の人生とは一体何なのだ。

 男の新著は「本物と贋作」。本物の価値を証明する意味で、贋作にも価値があると説く。夫婦の振りをしている二人の関係は贋作そのものだ。しかし、劇中で本物と同様に親しまれている贋作の絵画が紹介されるように、マクロ的な基本パターンというものが決まっている人生においては、全てが贋作だ。それが悪いということではない。皆その贋作の中で精一杯生き、最後には自分だけの“本物の人生”に到達するのだ。

 さらに、本作が名匠アッバス・キアロスタミによって撮られていることにより、一層興趣は増す。過去の作品において素人中心のキャストを起用してリアルとフィクションの垣根を取っ払ってしまったキアロスタミだが、本国イランを離れて製作したこの作品にもそのメタ映画的方法論は健在だ。人生の真贋を見極めることと同時に、演技のリアリティにも肉迫している。

 果たして、演じている俳優達はカメラが回っている間キャラクターになりきってリアルに生きているのか、それとも徹頭徹尾演技に集中しているのか。また、演技者は役柄を自分で引き寄せているのか、あるいは演目の方から俳優に近付いているのか。もちろん、双方に優劣はない。だが、役に成り切ることと“演技”と割り切って徹することのポジションはどうなっているのか。どこで線を引けば優れた映画たり得るのか。どのスタンスが本物(あるいは贋作)なのか。そういう問題提起を挑発的に観客の側に差し出す大胆さ、そしてその手順の鮮やかさに、心底感服してしまうのである。

 本作でカンヌ国際映画祭の主演女優賞を獲得したJ・ビノシュのパフォーマンスは素晴らしい。特に“偽物”の夫に対してアピールするためルージュを引くシーンの生々しさは圧巻だ。W・シメルは俳優ではないが(本職は歌手)、渋みの利いた空気感を醸し出していてよろしい。もちろん、トスカーナの地域色も大々的にフィーチャーされていて、観光気分も味わえる。一般的な娯楽映画の面白さとは離れた位置にある作品ながら、このヴォルテージの高さはただ事ではないだろう。本年度を代表する秀作である。
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「Dolls」

2011-05-14 21:50:01 | 映画の感想(英数)
 2002年作品。北野武監督が初めてラブ・ストーリーに挑戦したということで話題になった映画だ。文楽にインスパイアされたエクステリアを纏い、日本の四季を背景に現代を生きる3組の男女の激しい愛の姿を描き出そうとしている。

 いわゆる“思い付きの次元に留まっている映画”である。でも考えてみれば北野武の映画は、ほとんどが“思い付き”であるのも事実だ。ただし、本作は“思い付き”をふくらませて一本の作品に結実させるだけの工夫と粘りに欠けていたと、つまりはそういうことだ。

 そもそも文楽などの古典芸能と実写をパラレルで描こうという発想自体はそう珍しいものではない。過去にも、木下惠介や鈴木清順、田中登らが果敢にチャレンジし、確かな実績を挙げている。北野監督にもそのへんの気負いがあったのは確実で、菅野美穂や西島秀俊、三橋達也、松原智恵子、深田恭子といったそれまでと異なる俳優起用からもそれは現れている。

 でも結果としては作者の古典芸能への理解が表層的であったことを示すだけになってしまった。いわば素材に負けてしまったのであり、面白くもない悲恋話のいくつかが居心地悪そうに並べるだけで、せいぜい絵葉書的な美しい画面の中で展開される山本耀司のファッションショーでお茶を濁すしかなかったのだろう。意欲があるが作品としては失敗。もっと題材を吟味するか、企画自体を見直すことが必要だったのではないだろうか。
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「インソムニア」

2011-05-13 06:04:30 | 映画の感想(あ行)

 (原題:Insomnia)クリストファー・ノーラン監督が2002年に撮った本作は、彼の他の作品とは違い脚本をノーラン自身が手掛けていない(シナリオは新人のヒラリー・サイツが担当している)。だから彼の資質が十分発揮されていないとの危惧が当然あったのだが、作品を観る限り、それはある程度は杞憂に終わったと言っていいだろう。

 ただし、メジャーデビューで作家性を100%展開させてくれるほどハリウッドは甘くないのも事実である。前二作の「フォロウィング」「メメント」のように作劇を時系列的にバラバラにして観客を幻惑させるというテクニックこそ使っていないが、捜査の過程で誤って同僚を射殺して、それを真犯人に見られてしまうという失態から不眠症に陥るベテラン刑事(アル・パチーノ)は「メメント」でのアイデンティティの喪失に悩む主人公像に通じるものがある。

 全体を覆う不安なムードの造出にも抜かりはない。ただし、活劇場面を伴う終盤のドラマ運びはフツーの刑事物のルーティンでしかなく大いに不満。あと1,2回のヒネリが欲しいところである。

 珍しく悪役に回ったロビン・ウィリアムズは余裕たっぷりだが、サイコ・キラーではないのでイマイチ凄みに欠ける。女刑事を演じるヒラリー・スワンクは別に彼女でなくてもいい役どころ。でも「ボーイズ・ドント・クライ」のエキセントリックな役柄よりは数段好感が持てる。それにしても、白夜が支配するアラスカの夏の風景は実に素晴らしい。これを見るだけでも入場料金のモトは取れるだろう。
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「ダンシング・チャップリン」

2011-05-12 06:40:40 | 映画の感想(た行)

 つまらない。監督の周防正行の嫁御であるバレリーナの草刈民代の“引退映画”としての側面を持っていることは観る前から分かっていたので、何も“バレエの真髄”を追求するような類のシャシンではないことは納得出来る。しかし、これほどまでに訴求力の低い画面ばかり並べてもらっては、ダンサー達の頑張りも無に帰してしまうだろう。

 バレエ界の巨匠であるローラン・プティが名手ルイジ・ボニーノのために創作し91年に初演されたバレエ「チャップリンと踊ろう」を題材にした作品である。映画は二部構成で、前半はメイキングを扱っている。練習風景やプティと周防との葛藤、そして還暦に達しても衰えを見せないボニーノの姿は興味深いが、映画的興趣はさほど高いとは言えない。まあ普通の映像だ(第二部の“前振り”みたいな位置付けなので、仕方がないのかもしれない)。

 で、肝心の後半はどうかというと、これが呆れるほど面白くない。チャップリンの作品のワンシーンに着想を得たという創作バレエが延々と続くのだが、イマジネーションの欠片もない平板な振り付けで凡庸なダンスが提示されるのみ(まあまあ楽しめたのは警官隊の踊りぐらいだ)。ハッキリ言って、昔のチャップリンの映画を観ていた方が遙かにマシではないか。いったい何が楽しくてこんな出し物を作ったのだろうか。

 もちろん、これは映画用に作られた一幕物のプログラムであり、実際は二幕構成でもっと多彩な展開が用意されていることは想像に難くない。それ以前に、バレエは映像作品で観るよりも実演に接する方が感銘度が高いことは承知している。でもそれらを差し引いてもこの退屈さには我慢できない。中盤以降は眠気を抑えるのに苦労した。

 別の題材の方を取り上げた方が数段マシだったのではないか。ボニーノが得意としていた「ジゼル」でも「コッペリア」でも良かった。あるいはチャイコフスキーでもストラヴィンスキーでもいいから、誰でも知っているネタで勝負した方が盛り上がったはずだ。

 そもそもバレエ映画には過去に「愛と喝采の日々」とか「愛と哀しみのボレロ」とかいった傑作・秀作が少なからずあることは、当の周防監督も知っていたはずだ。ところが、往年の有名作に比肩しうるようなレベルに仕上げようという意気込みがここには何も感じられない。かといってマドンナ役の草刈が特別に美しく撮られているというわけでもない。

 周防作品には珍しい、大味で雑な凡作である。まあ“日本人にはバレエ映画を撮れるだけの素養がないのだ”という見方も出来るのだが、それはまた別の問題だろう(^^;)。
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「ふたりのミナ」

2011-05-11 06:37:27 | 映画の感想(は行)
 (英題:Through Sunglasses)2002年のアジアフォーカス福岡映画祭で観た映画。離婚寸前の夫婦と無理矢理に結婚させられようとしている娘とその相手の二組のカップルが、女性・男性両陣営に別れて抗争(?)を繰り広げるというイラン製のコメディ。

 開巻当初はタルい演出でどうしようかと思ったが、ドラマが進むに従ってユーモアたっぷりのネタが小気味よく決まるようになり、結果として楽しく観ることが出来た。犬も食わない夫婦喧嘩と些細な男女の行き違いを余裕たっぷりに見せるモハマド・ホセイン・ラティフィ監督の手腕は確かだ。ラストのオチも秀逸で、これならハリウッドでのリメイクも可能かもしれない。

 主演はイランを代表する女優と言われるファテメ・モタメダリアだが、なかなか“華”のある存在感を発揮していた。イラン映画では珍しいカーチェイス(らしきもの)が挿入されているのも興味深い。
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「シリアスマン」

2011-05-10 06:56:01 | 映画の感想(さ行)

 (原題:A Serious Man )悪意のこもった禍々しさが痛快にも感じられるような、かなりの秀作である。コーエン兄弟作品でこの映画とよく似たものといえば、カンヌで大賞を獲得した「バートン・フィンク」であろう。ただし、所詮は浮世離れした作家センセイの勝手な妄想を並べ立てただけで、観ている私には何の接点も見出せなかったあの映画とは違い、主人公が絵に描いたような小市民であり普遍的なアピール度が高いところが評価できる。

 1967年、アメリカ中西部郊外の住宅地に居を構えるラリーは、地元の大学で物理学を教える平凡な中年のユダヤ人。だが彼の中学生の息子はクラスの不良と金銭的トラブルを抱え、メンタル障害のある無職の弟が家に転がり込み、隣人が敷地の境界線を侵入してきたりと、私生活では愉快ならざる状況が目立つ昨今だ。

 仕事面でも落第点を付けた留学生が多額の賄賂を押しつけてきたり、大学側が終身契約を結んでくれる予定だったのが怪しくなってきたりとか、何かと落ち着けない立場である。そんなある日、ラリーの親友と関係を持った妻から別れ話を切り出され、呆気にとられているうちに家から追放されてしまう。

 平穏な日々の裏に、悪夢のような陥穽がポッカリと空いていたという設定はさほど珍しくもないが、当人が凡夫であり何も非がないのに周囲が勝手に暗転していくそのプロセスが実に根性が悪くてアッパレだ(爆)。しかも、熱心なユダヤ教徒でもある主人公がラビ(師)に相談するが事態はまったく好転しないというくだりは(まことに不謹慎ながら)笑ってしまった。

 ラビにもランキングがあり、一番の下のクラスから試してみるのだが、大したアドバイスも受けられない。ならばもっと上位のラビではどうかと期待を抱いてはみるものの、会うまでに時間と労力を費やした挙げ句、やっぱりロクな話は聞けない。

 気取った書き方をすれば“神の不在”だが、平たく言えば“自分のことは自分でやるしかない”という話である。だが、人間というものは悲しいもので、他力本願に走ってしまうのだ。何も出来ないうちに状況は悪化し、ついには“終末”を暗示させる幕切れを待つしかない。

 意味不明ながらグロテスクな印象を残す冒頭の寓話の場面から、不条理極まりない終盤まで、全編ブラックに染まった語り口はコーエン兄弟の真骨頂だ。ラリー役のマイケル・スタールバーグをはじめリチャード・カインド、フレッド・メラメッド、アダム・アーキンなど映画ではあまり知られていない舞台俳優ばかりを揃えたキャスティングもテーマを浮かび上がらせる意味でポイントが高い。

 寒色系を基調としたロジャー・ディーキンスによるカメラワークは素晴らしく、挿入曲のジェファーソン・エアプレインの「サムバディ・トゥ・ラヴ」が抜群の効果だ。
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「森の中の淑女たち」

2011-05-09 06:43:01 | 映画の感想(ま行)
 (原題:The Company of Strangers)90年作品。バスの事故で山深い森の中に取り残された老女8人の共同生活を描く。監督はカナダのシンシア・スコットだが、この人については私はまったく知らない。キャストも同様に馴染みのない名前ばかりが並ぶ。しかし作品自体のレベルはけっこう高く、これは思いがけない才能だと感じた。

 別にドラマティックな出来事があるわけではない。森の中の廃屋での登場人物たちの暮しをカメラは静かに追うだけである。彼女たちの会話、クセや表情から一人一人が歩んで来た人生を浮き彫りにする。最初は見ず知らずだった彼女たちが次第に連帯感を深め、年をとったことに対する絶望・諦めなどから解放されていく過程がしみじみと感動的に、しかもユーモラスに綴られる。老人を主人公にした映画ではマーク・ライデル監督の「黄昏」(82年)を想起させる秀作だと思う。

 演技していることを全く感じさせない自然体の出演者たちがいい。会話のシーンがいつの間にか登場人物に対するインタビューのような形になり、若い頃の写真がカットバックで挿入される。平凡な老人に見えても決してその人生は平凡ではない。いや、ドラマティックではない人生なんて本当は存在しないのではないか、という作者の主張が伝わってくる。全体的に実験的とも言える手法を駆使しながら、肌触りは暖かく深い余韻を残す映画である。

 目にしみるカナダの自然の風景の美しさ。シューベルトやモーツァルトなどの室内楽を中心とした音楽もセンスがいい。誰にでも薦められる作品である。
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