元・副会長のCinema Days

映画の感想文を中心に、好き勝手なことを語っていきます。

KEFのニアフィールド型スピーカーを試聴した。

2012-08-06 06:48:28 | プア・オーディオへの招待
 英国のスピーカーメーカーKEF社の新型モデルであるLS50を試聴することが出来た。エントリー機からハイエンド製品まで幅広く手掛け、今やB&Wなどと並んでイギリスの代表ブランドとしての評価が固まった同社だが、LS50はその創立50周年モデルである。

 その昔、BBCがモニター用の小型スピーカーとしてとして各メーカー(KEFをはじめSPENDORHARBETH等)に発注したLS-3/5aという製品があったが、LS50はその流れを組むモデルらしい。つまりはニアフィールドで使用される“音楽再生専用機”としての仕様である。

 この“音楽再生専用”というのが重要なところで、現在市場に出回っているスピーカーは、たとえ高級品でも“AV用”としての役割が振られている(そうでないと売れないらしい)。いくら音楽鑑賞目的のみで高いスピーカーを買っても、しょせんは“AV機器の流用”じゃないかという構図が付いて回り、愉快になれないユーザーも少なくないと思われる。その点、本機はAV用途に色目を使っている様子は無く、実に潔い。こういうのがオーディオファンの琴線に触れるのである。



 使用ユニットは13cm口径のものが一発だけだ。ちょっと見ただけでは振動板が一枚のように思えるが、実は低音用と高音用の2つが重ね合わされている。いわゆる同軸形式だ。このスタイルは音像定位に関してアドバンテージが得られる。キャビネットは小振りだがシッカリと作られており、見た目の安心感もある。とにかく、一度は聴いてみたいと思わせるエクステリアだ。

 なお、試聴に使われていたアンプはLUXMANのL-505uX、CDトランスポートとDACはESOTERICのハイエンド機である。ケーブル類と電源機器はショップのオリジナル品だ。

 肝心の音は、パッと聴いた感じは“けっこう柔らかくて聴きやすい。でも、レンジが狭く音場も広がらない。これはイマイチか”といったものだったが、鳴らしていくうちに聴感上の帯域がグングン拡大。再生開始から1時間ほど経った頃には広大な音場とピンポイントの音像定位という、申し分の無いサウンド空間が構築された。

 モニター(業務用)として作られているので“解析的な”鳴り方を予想していたのだが、(高音部は艶っぽさよりも解像度を確保しようという方向性に寄っているとはいえ)見事な“美音調”である。少なくとも日本のメーカーのモニター用スピーカーみたいな無味乾燥な音では全然ない。

 とにかく音色は明るくて伸びやか。細かい音をよく拾うが、決してエッジが立ったところは無く、いくら聴いても疲れない。ジャンルもまったく選ばず、ポップスもクラシックも何でもOK。まだ発売されてから1か月も経過していないので、エージング(鳴らし込み)によってどこまで音がこなれてくるのか楽しみだ。



 ただし、駆動していたL-505uXは20万円超の製品である。LS50は11万円なので、普通はもっと安いアンプを合わせるはずだ。だからスタッフに“もっと安価なアンプではどうなのか”と質問したところ、今度は10万円未満の低出力真空管式アンプにチェンジしてくれた。結果、L-505uXで鳴らしたときほどの目覚ましい展開こそ見られなかったものの、これはこれでソフトタッチの管球式アンプらしい、しなやかでゆったりとした音場が現れ、思わず唸ってしまった。

 LS50と同価格帯の製品にB&WのCM1があるが、あれはアンプやプレーヤーに気を遣ってケーブルなどのアクセサリーに気を遣って、セッティングにも気を遣わないとマトモな音は出てくれない。対してLS50は、高いアンプではもちろん達者なところを見せるものの、そう高くないアンプでも破綻の無い音で(そのアンプの長所を出すように)鳴ってくれるようだ。

 とはいえ、LS50は使いこなしが十二分に必要な機器であることは確かである。壁との距離の取り方で音は激変するし、インシュレーターの種類でも音は大きく違ってくるし、もちろんケーブルによっても音はコロコロ変わるとのことだ。しかし、CM1のように使いこなしに“苦労”するような製品ではなく、使いこなすことが“楽しく”なってくるようなモデルだと思う。

 ピアノ鏡面仕上げによるデザインも美しく、この価格が信じられないほどの質感を確保している。また、接続に左右それぞれ2本のスピーカーケーブルを使用するバイワイヤリング方式を取っておらず、従来通りのシングル形式であるのが嬉しい(ケーブル代が無駄にかからない)。

 接続する機器を選ばず、鳴らすジャンルも選ばない。正直言って、あやうく衝動買いしそうになった(笑)。とはいえ、今後もしもスピーカーの更改をすることがあったら、有力候補になることには間違いない。
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「ディル・セ 心から」

2012-08-05 06:00:19 | 映画の感想(た行)
 (原題:Dil Se)98年インド作品。ラジオ局ディレクターとして腕をふるっていた裕福な青年と、テロリストとして仕立て上げられた若い女との悲恋を通して、インド社会の問題や矛盾を描く。・・・・とはいっても上映時間は167分であり、しっかりとインド製娯楽映画の体裁を取っているのは御愛敬だ。

 冒頭のダンスシーンはスゴい。走る列車の上で踊りまくる。これぞ娯楽の殿堂インド映画か・・・・と思ったのはそこまでだった。「ボンベイ」や「ザ・デュオ」で知られるマニ・ラトナム監督得意の社会派ミュージカルながら、演出にいつものキレがない。展開が冗長で、余計な場面が多すぎる。

 そして何よりシャー・ルク・カーンの陽性キャラクターに全然合わないあの結末。暗い気分で劇場を後にしてしまったことを思い出す。「ボンベイ」などで優雅な美貌を披露していたマニーシャ・コイラーラがテロリスト役というのも、何か違う気がするなァ。
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「苦役列車」

2012-08-04 11:23:50 | 映画の感想(か行)

 クセの強い(でも面白い)芥川賞受賞作品を山下敦弘監督がどう料理するのか興味があったが、及第点には十分達する出来で感心した。何より主演の森山未來に尽きる。

 彼が演じる19歳の北町貫多は、酒とタバコと風俗通いにしか興味が無く、中学を出てからずっと日雇いの仕事で糊口を凌いできた。父親が性犯罪者だったという点は幾分同情は出来るが、向上心とか将来展望なんかは毫も持ち合わせておらず、まさに地べたを這いずり回るように生きている、絶対に知り合いたくないタイプの人間だ。

 ところがこれを森山が演じると、決して絶望的に暗くならない。彼のスポーティな体格と、飄々とした持ち味は、どんなダメ人間にでも“まあ、何とかなるんじゃないの?”といった楽天性を付与させてしまう。しかも、それをワザとらしく見せないほどの、しっかりとした演技力もある。彼を主役に選んだ時点で作品の成功は約束されたようなものだ。

 貫多は職場でアルバイト学生の正二と親しくなり、初めて“友人関係”というものを体験する。さらに、かねてより気になっていた古本屋で働く康子に、正二の力を借りてアプローチすることも出来た。しかし、何事も“初めて”というのはスンナリ上手くいくことは少なく、貫多はシビアな現実の前に狼狽えて結局は“退散”してしまう。

 しかし、それでも貫多にとっては正二や康子と(一時的にでも)付き合えたのはプラスであったのだ。たとえ、倉庫仕事で事故に遭った先輩を前に立ち尽くすしか無かったとしても、また独居老人の“下の世話”をすすんで引き受ける康子のそばで所在なげに佇むだけであったとしても、それまでの貫多の生活では絶対に出会えない体験である。人間、ほんの少しでも視線を“外”に向ければ、幾ばくかは“成長”していくものなのだろう。若い主人公にとっては尚更だ。

 時代設定が80年代半ばというのが効いている。貫多のような貧しい連中もいて、若い奴らは総じてカネを持っていない。でも、世の中全体は決して暗くなかった。貫多にしてみたところで、捨て鉢になって犯罪に走ることもなく、生活保護をつまみ食いしようなどという邪な気持ちには縁が無い。しかも彼の趣味は読書なのだ。当時は最低限のプライドは(無意識的にでも)保持していこうという心理が誰にでもあったように思える。

 翻って現在はデフレによって低階層の実質的な“貧困度”は80年代よりもマシになったとも言えるが、出口の全く見えない不況により鬱屈度は昔よりも昂進している。そういった社会風刺を忘れていないところも本作の質的な厚みが増している要因であろう。

 終盤での、山下監督らしい映像的仕掛けは面白い。貫多の“前の彼女”との掛け合いに見られるシュールな生臭さ(?)は、脚本を担当したピンク映画の名匠いまおかしんじの手柄だと思う。そんな作家性を堪能できることも本作の見所の一つだ。正二に扮した高良健吾は如才ない若者を上手く演じていたし、原作には出てこない映画オリジナルのキャラクターである康子を演じる前田敦子も悪くない。まあ、(今のところ)トップアイドルの一人である彼女が、どうして出演作としてこういうマイナー風味の作品を選んだのか(あるいは、選ばれたのか)、個人的にはそっちの方に興味があるが・・・・(笑)。

 あと関係ないのだが、高良健吾が劇中で着ていた服は当時のトレンドが反映されていて、実に懐かしかった。私も昔は彼が着ていたような衣装をたくさん持っていたものだ。もちろん決して安くはなかったのだが、やせ我慢してでも身に付ける物には手を抜かないといった、そんな風潮があったように思える。
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「ダンサー・イン・ザ・ダーク」

2012-08-03 07:16:49 | 映画の感想(た行)
 (原題:Dancer in the Dark)2000年作品。60年代のアメリカの田舎町を舞台に、東欧移民のシングルマザーが理不尽な罪を被って破滅していくまでを描くラース・フォン・トリアー監督作品。カンヌ国際映画祭で大賞と主演女優賞を獲得している。

 私は封切り時に見たが、途中退場した客も10人以上いたようだ(笑)。一方でラスト近くにはあっちこっちからすすり泣きの声が聞こえてきたことを思い出す。でもちょっと待てよ。なんで泣くの? ヒロインが可哀相だから? 単に“可哀相にねぇ”だけで泣いていいものかどうか、意地悪な私は心の中で逡巡してしまった。



 もとよりこのストーリーに実体感なんかあるわけがない。プロットは穴だらけであり、筋金入りの変態であるラース・フォン・トリアー監督が頭の中だけでデッチ上げたシロモノだろう(だいたい、アメリカが舞台なのにロケをすべてスウェーデンで行ったというのもクサい)。

 それを力技で観客に押しつけるスキルを(幸か不幸か?)持ち合わせていたところがこの監督の非凡なところなのだろう。この前の作品「奇跡の海」ではその“力技の方法論”が無茶苦茶なカメラワークとエミリー・ワトソンの力演とラストの大見得であったのに対し、この作品では主演のビョークの存在感と音楽だったのだろう。

 つまりこれは“ビョークに尽きる映画”である。それ以外には何もない。ビョークの雰囲気と音楽にハマれば評価はできるだろうし、そうじゃなかったら不安定な映像と真っ暗なストーリーに不快感を覚えて敬遠するしかない。関係ないけど終盤はアラン・ドロン主演の「暗黒街のふたり」を思い出してしまった。
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