元・副会長のCinema Days

映画の感想文を中心に、好き勝手なことを語っていきます。

「映画『立候補』」

2013-08-17 06:52:37 | 映画の感想(あ行)

 とても興味深いドキュメンタリー映画だ。題名通り選挙の立候補者を題材にしているが、ここで扱われているのはお馴染みの政党の公認を受けた者達ではない。組織も持たずに、それどころか当選する可能性が限りなくゼロに近いことを承知していながら、あえて立候補するいわゆる“泡沫候補”の面々である。そのポジションから参政権の何たるかを探っていこうという、その着眼点は悪くない。

 映画が主に取り上げるのは、2011年の大阪府知事選だ。この時は当選した大阪維新の会の松井一郎をはじめ、7人が立候補していた。うち2人は民主党(および自民党)と共産党の公認候補で、残りの4人が泡沫ということになる。この図式に真っ先に異を唱えるのが、泡沫候補者の一人であり本作の“中心人物”であるマック赤坂だ。

 既成政党の公認だろうが無所属だろうが、立候補者としての立場はイーヴンであるはず。ところが、実際はメディアの扱いには大きく差がある。既成政党に属していない候補者など、最初から存在していないかのような扱いだ。赤坂はこれに抗議するが、あっさりと門前払いを食らってしまう。

 さらには赤坂が選挙活動に乗り出すと、決まってその場所の管理者やら当局側の人間やらがイチャモンを付けてくる。しかし、候補者の権利は公選法によって保証されている。当然の行為であるかのごとく“選挙活動妨害”をやる者達の方がオカシイのだ。

 とはいえ、赤坂の言動は完全に常軌を逸している。そのハレンチとも言える行動は、スペクタクル的にイレギュラーだ(笑)。これでは当選は見込めない。だが、彼は決して道楽や伊達や酔狂で選挙に出馬しているのではない。そこには確固とした“理由”がある。その“理由”は映画の中では具体的に語られないが、重要なのは“理由の内容”ではなく“理由の存在”が示されていることである。赤坂だけではなく、他の3人の泡沫候補も同様だ。彼らには切羽詰まった立候補の“理由”があることが窺われる。

 ひるがえって、既成政党の公認を得た立候補者には、それぞれ何か“切迫した事情”があるのかというと・・・・それはあまり感じられない。自分の言葉でしゃべっていない。

 余談だが、私の知り合いに地方選に立候補した者がいた。大政党の公認を取り付け、組織を固め、その手筈は万全だ。しかし、本人が主張していることはどれも“借り物の言葉”であった。聞く者の心に全然響かない。それに比べれば、ここで描かれる泡沫候補達の言説の方が(内容はともあれ)よっぽど真に迫っている。

 終盤、それまで赤坂の行動を無視していた彼の息子が、2012年の都知事選に立候補した赤坂の支援活動をしているところが描かれる。有名候補者の演説会の隣で珍妙な言説を披露する赤坂を、取り巻いた群衆は罵倒する。それに対して赤坂の息子は“お前ら、言いたいことがあるのならば、選挙カーの上で言ってみろ!”と一喝する。彼は正しい。何も行動せず、理論だった思考形態も持ち合わせず、勝ち馬に乗ったがごとく少数派を揶揄することしか出来ない烏合の衆こそが、民主主義の敵であることが示される。

 監督の藤岡利充は各候補の政策に踏み込むことはしていないが、それは正解だろう。マニフェストの提示よりも、その前段階の立候補のシステム及びそれを取り巻く環境こそが、参政権の本来の目的を阻害しているのではないか・・・・その指摘は、かなり重い。
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「マイ・フレンド・フォーエバー」

2013-08-16 06:08:35 | 映画の感想(ま行)

 (原題:The Cure)95年作品。困った映画だ。舞台はミネソタ州の片田舎。子供を顧みない母親と暮らす12歳のエリック(ブラッド・レンフロ)と、隣家に住むエイズ患者の11歳のデクスター(ジョゼフ・マゼロ)との友情とやらを描くドラマ。監督はピーター・ホートン。

 何よりあきれるのが主人公エリックの底無しのバカさ加減である。彼はデクスターの病気を治そうと、あらゆる種類のチョコレート・バーを無理矢理食わせたり(自分も食って腹をこわしたりする)、エイズに効く薬草があるかもしれないと、そこらへんに生えている雑草雑木を煎じて飲ませたりする。これがどういうことになるか、12歳にもなればわかろうというものだが・・・・。案の定、デクスターは誤って毒草を飲まされ救急車で運ばれる。

 さらにエリックは、エイズ特効薬を発見したというニューオーリンズの医者を訪ねて(というのは口実で、同じ街に住む父親に会うのが目的)、川を下る危険な旅にデクスターを連れ出す。デクスターが血友病の可能性があるというのに何考えてんだか。そして道中、人の金を盗んでも涼しい顔をしている。

 デクスターの母(アナベラ・シオラ)は優しく理解のある人物として設定されているようだが、私に言わせればこれもバカだ。確実に言えるのは、エリックがいなければデクスターはもっと長生きしたということ。私がデクスターの親だったら、エリックを腰が立たなくなるまでシバき倒しているところだが、母親は何も言わない。もちろんエリックも心からの謝罪も反省もしていない(ように見える)。

 だいたい悪趣味な部屋や、人形を焼いたり縛り首にして遊ぶ性癖からして、エリックは一種のサイコパスではないか。たぶんこれに懲りず、将来は札付きのイジメっ子として相手を自殺に追いやったり、反対に逆襲されて殺されたり、ロクな人生を歩まないだろう。こういう問題児をさも正しいように爽やかなタッチで綴るこの映画の罪は重いし、エイズ患者に対する理解を妨げる要因にもなるのではないか。

 それにしても、エリックに触発されて次第に無謀な遊びを覚えるデクスターは悲しい。教訓“エイズはめったなことでは感染しないが、バカは簡単に伝染する”。デイヴ・グルーシンの音楽だけはさすがに美しかったものの・・・・。
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「終戦のエンペラー」

2013-08-12 07:36:30 | 映画の感想(さ行)

 (原題:Emperor )終盤を除けば、退屈な映画である。GHQの幹部が戦争責任の行方や日本人の国民性の理解に関して壁にぶちあたり、ああでもないこうでもないと勝手に悩んでいる様子が冒頭から延々と続く。隔靴掻痒なその展開は、れっきとしたアメリカ映画でありながら、製作陣には日本のスタッフが関与しているだめだと思われる。

 もちろん、異なるスタンスのプロデューサーを複数配して事に当たらせるというのは、双方の良いところが前面に出ることもある。しかし、どちらも相手に遠慮して結局は微温的な展開に終始することもあろう。本作は、間違いなく後者の方だ。

 1945年8月、占領軍の司令官ダグラス・マッカーサーは、部下で知日派のフェラーズ准将に“戦争責任者の特定と、天皇の戦争責任に関する判定”という特命を与える。彼は関係者から話を聞くものの、いまひとつ真相を掴みきれず、捜査は難航する。しかし、マッカーサーが天皇に謁見する場をセッティングすることに成功。これが日本の戦後史を決定付ける出来事になる。

 だいたい、ヨソの国の事情を10日かそこらで調べられるはずも無く、しかも“本音と建前”をケースバイケースで使い分ける日本人に対し、西欧的な合理的価値観でアプローチを試みようとすること自体、暴挙と言わざるを得ない。当然、フェラーズは異質な文化を前にして右往左往するしかなく、それをそのまま映画で追っても面白いものが出来る可能性は低い。

 しかも、フェラーズにはかつて日本人の恋人がおり、彼女の安否を確認するだの何だのといったアクビが出るようなサブ・プロットが無遠慮に挿入されているので、観ていて実にまだるっこしい。ハッキリ言って、これは昔の「将軍」みたいな“アメリカ人男性と日本女性との恋愛沙汰”といったステレオタイプのモチーフでしかなく、脱力するばかりだ。

 ところが、本作のハイライトである謁見シーンは素晴らしく盛り上がる。この二人の駆け引きを(史実に基づいて)紹介するだけでも、この映画の存在価値はあるだろう。いわば、それまでの凡庸極まりない作劇は、このシークエンスの“伏線”だとも言える。

 ピーター・ウェーバーの演出は可も無く不可も無いレベルだが、マッカーサー役のトミー・リー・ジョーンズとフェラーズに扮したマシュー・フォックスはなかなかの力演で、作品を安っぽくしていない。西田敏行や羽田昌義、夏八木勲、中村雅俊、伊武雅刀といった日本人キャストの扱いも悪くない。そして昭和天皇を演じる片岡孝太郎は、そのカリスマ性の表現と共に大きな存在感を発揮している(まさに儲け役だ)。

 本来ならば、こういうネタは日本映画の側から提案してしかるべきだと思うが、まんまとハリウッドに持って行かれたのは残念。チャラチャラした企画でお茶を濁すよりも、こういう硬派のネタで勝負しようという大手映画会社の製作者は、今の日本にはいないようだ。
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「青島アパートの夏」

2013-08-11 19:43:50 | 映画の感想(た行)
 (英題:Stand Up Don't Bent Over)92年中国作品。青島(チンタオ)のアパートに引っ越してきた作家の高夫婦の右隣にはガラの悪い張一家、左隣には党幹部の劉一家が住んでいた。彼らは何かといがみ合っているが、やがて勤めていた工場をクビになった張は会社を設立し、熱帯魚の飼育販売を始める。面白くない劉は娘をスパイとして張の会社に送り込み、営業妨害をしようとするが、事態は意外な方向へと進んでいく。

 監督は当時若手の社会派と言われた黄建新(ホアン・チェンシン、と読む)。2年間のオーストラリア留学の後、帰国してあまりの状況の変化に驚き、そのカルチャー・ショックがこの映画を製作する上での大きな動機となっているという。市場経済が急速に導入される中国の実状を皮肉ったコメディだ。

 冒頭、気の弱い作家の高がアクの強い張に仰天する場面で、これは「デリカテッセン」か「アダムス・ファミリー」ばりのブラックなコメディになると期待はしたのだが・・・・。

 言いたいことはよくわかるのである。要するにこれは、パワフルだが品のない庶民と杓子定規的な発想しか出来ない党幹部のドギツい“抗争”を通して、中国社会における新旧のパワープレイを描き、どっちつかずの曖昧な態度で皆の顰蹙を買い、最後はアパートを出ていくハメになる作家夫婦に口ばかり達者で実行力のないインテリの弱さを象徴しているのだ。

 作者のウェイトはこの弱気な作家に置かれていることは明白で、進歩的な言論界でイニシアティヴを取っても、実社会では何もできない社会のお荷物と化している知識人を自嘲をこめて笑い飛ばそうとしている。

 まあ、狙いとしては面白いといえる。だが、映画としてはいっこうに面白くないのはズバリ、演出がうまくないからだ。テンポの遅さとギャグのハズし具合は致命的で、あとからよく考えると“あー、こういう意味で笑いを取ろうと思ってたんだ。ふーん”てな調子で、あまり画面が弾まない。アメリカ映画だったら、いや、香港映画でも少々クサい演技とリズムのいい演出によって退屈させない作品に仕上げる題材だったろう。上映時間も2時間は長すぎる。1時間半程度でコンパクトにまとめてほしかった。
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「SHORT PEACE」

2013-08-10 08:33:47 | 映画の感想(英数)
 4話オムニバスのアニメーション映画だが、第四話の「武器よさらば」が飛び抜けて面白い。大友克洋の同名短編をカトキハジメが映画化したもので、廃墟と化した近未来の東京を舞台に、五人からなる特殊部隊と暴走した自走式戦車とのバトルを描く。

 この戦車は東京を壊滅させた“先の戦争”の遺物だと思われ、近付く者を容赦なく自動的に攻撃するため、これらを取り除かないと復興は覚束ないらしい。五人は最新装備を駆使して一台ずつ探し出して“処分”するのだが、これがそう簡単にはいかない。戦車は圧倒的なパワーを有しており、綿密な連携の元に事に当たらないと、こっちがやられてしまう。

 映画は地下道に潜んだ戦車を除去するくだりがクライマックスになるのだが、神出鬼没の戦車に手を焼き絶体絶命の危機に陥る五人の悪戦苦闘を、畳みかけるような筆致で描いている。精緻な作画と非凡なキャラクター造型とメカのデザイン、効果的な音響など、短いながらも長編一本分のヴォルテージの高さを達成している。人を食ったようなオチも絶品だ。

 さて、これに比べると残りの3本は消化不良の感がある。第一話の森田修平監督による「九十九」は、嵐の山中で道に迷い、朽ち果てたお堂に逃げ込んだ男が遭遇する怪異譚だ。古い器物に宿るとされる九十九神が大挙して現れるシークエンスは映像面ではとても面白いが、ストーリーは捻りが無い。

 第二話「火要鎮(ひのようじん)」は大友克洋が久々に演出を担当した一編で、18世紀の江戸を舞台に、幼なじみの火消しの男を思い詰めるあまり、大火事を引き起こしてしまう町娘を描く。絵巻物を思わせる映像構築は素晴らしいものがあるが、尻切れトンボみたいな筋書きは釈然とせず映画としては面白いものではない。

 第三話安藤裕章監督の「GAMBO」は戦国時代の東北の山奥を舞台に、人間の言葉を解する白い熊と“鬼”と呼ばれる宇宙生物との戦いを描く。バトルものとして良く出来ており、終盤の展開には手に汗を握らされるが、物語のディテールがほとんど説明されていない。これは短編ではなく、長編映画の一部分を切り取ったような印象を受ける。長尺の“本編”の製作を望みたいところだ。

 アニメーションのオムニバス物としては過去にも「MEMORIES」や「迷宮物語」などの作品があったが、いずれも“数本でひとつのテーマを形成する”といった目的よりも“単品では劇場公開が難しい短編を寄せ集めた”という感が強い。まあ、興行上の観点からは仕方ないのかもしれないが、少なくとも各短編に何らかの共通性を持たせた方が、映画としては訴求力が増すと思う。
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「ピアニスト」

2013-08-09 19:44:38 | 映画の感想(は行)
 (原題:La Pianiste )数多くの賞を取り、今やヨーロッパ映画界の寵児になった感があるミヒャエル・ハネケ監督が2001年に撮った注目作。この映画もその年のカンヌ国際映画祭で銀賞に輝いている。

 中年の女性ピアノ教師と年下の教え子との愛憎劇という通俗的なネタながら、この監督ならではの一筋縄ではいかない演出力が大いに発揮されている。

 この映画の主人公は、ジャン=ピエール・ジュネ監督の「アメリ」のヒロインが彼氏と出会わないままトシを取ったらこうなってしまうのだろうかと思わせる。ただし、この映画のヒロインが「アメリ」より百億倍は不幸だったのは、彼女がクラシック音楽という「芸術」に関与していたせいだろう。



 コンサート・ピアニストにはなれず、一介のピアノ教師に過ぎない彼女でも、教え子には厳しく接し、芸術に対するプライドも見解も持っている。恋愛などというある意味下世話なものに頼らなくても、自分には俗人には及びも付かない「芸術」がある・・・・なんてことが、自らの未熟さに対する絶好の口実になってしまうのだ。それでも、彼女の初体験の相手が同世代かもっと上の成熟した男性だったならこれほどの惨状にはならなかったかもしれない。

 ところが、何の間違いか年下のハンサム野郎が好意を抱いてしまった。しかも彼はピアノの弟子でもある。おかげで、彼女は「自分の言うことをきく若い教え子」と「恋愛相手」の区別がつかないまま彼とのアバンチュール(のようなもの)に突入してしまうのだ。

 描写自体はまるで容赦が無い。この女の惨めさが、これでもかとばかりに画面上で露わになる。このあたりは、ハネケ監督の底意地の悪くなるような演出力が大いに発揮されている。

 厳しい現実に打ちのめされた末にラストで開き直ったような行動に出る彼女だが、それで彼女を取り巻く状況が好転するわけでもない。しかし、「孤独みたいなもの」に自己満足している状態から「絶対的な孤独」を自覚せざるを得なくなるだけでも「成長」だと言えなくもないだろう。主演のイザベル・ユペールは好演。なお、相手役のブノワ・マジメルは私生活でも大変な“年上キラー”とのことだ(笑)。
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「ベルリンファイル」

2013-08-05 06:19:00 | 映画の感想(は行)

 (英題:THE BERLIN FILE )韓国製スパイ・アクションの快作である。まず舞台をベルリンに置いたのが良い。当地は韓国と北朝鮮の大使館が両方存在し、冷戦後の現在においても情報戦の拠点になっている場所だ。しかも、金正恩体勢になってからの北朝鮮の外交体制が一本化しておらず、大使館単位で勝手に動いているような挙動を見せるのも、タイムリーなネタ振りだと思う。

 ベルリン在住の韓国国家情報院のエージェントのジンスは、北朝鮮の諜報部員ジョンソンがアラブ過激派に武器を横流ししているとの情報をキャッチし、取引を阻止する。一方のジョンソンは韓国側にその情報が筒抜けになっていたことに疑問を抱き、さらには北朝鮮大使館に勤務している妻のジョンヒが二重スパイ疑惑をかけられていることを知るに及び、祖国への忠誠心が揺らいでくる。やがて当事者達の思惑を超えた陰謀の存在が明らかになり、各国のスパイ達をも巻き込んだバトルが開始される。

 冒頭に書いたような舞台設定の妙味に加え、キャラクターの造型がしっかりしているのだから、これで映画の成功は約束されたようなものだ。目的のためには手段を選ばない強面のジンスと、祖国の英雄でありながら国家権力の裏切りに遭い煩悶するジョンソンとの対立軸に、ミステリアスな影のあるジョンヒの存在が絶妙のアクセントを付ける。

 さらには悪役である北朝鮮保安監察院の若手エリートの憎々しさが加味され、映画的興趣は高まるばかりだ。演じるハン・ソッキュやハ・ジョンウ、チョン・ジヒョン、トン・ミョンスらの優れたパフォーマンスは、作品に奥行きを与えている。

 リュ・スンワンの演出は力強さがあり、少々無理なシチュエーションでもパワーで押し切ってしまう。活劇場面のキレ味は素晴らしいものがあり、中盤のカーアクションもさることながら、終盤の銃撃シーンから肉弾戦へと発展する段取りの巧みさには舌を巻いた。アメリカの「ジェイソン・ボーン」シリーズを彷彿とさせるヴォルテージの高さだ。特に背の高い草が生い茂り、相手の姿を容易に見つけられない原野でのチェイス場面は、スクエアーな演出力が大いに発揮されている。

 ラストの扱いなど、続編の製作をも期待させて、思わずニヤリとさせる。それにしても、北朝鮮が一枚岩では無いことをここまで明確に示した作品は珍しい。おそらくは実際も似たようなものなのだろう。日本としても正面切ってぶつかるよりも、搦め手から攻める方法もあるのかもしれない。ただ、そのあたりの駆け引きを求めるには、我が国の外交姿勢が心許ないのも事実のようだ。
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「アウトランド」

2013-08-04 16:25:32 | 映画の感想(あ行)
 (原題:Outland )81年作品。この頃は79年に公開された「エイリアン」の影響でSFサスペンス物の製作が相次いでいたが、本作は往年の西部劇の代表作「真昼の決闘」を下敷きにしていることが異彩を放っている。SF映画にはあまり出なかったショーン・コネリーが主役を引き受けたのも、ある種古風な筋書きが影響しているのかもしれない。

 人類が他の天体の資源を活用するようになった時代、木星の衛星イオにも鉱石採掘のためのプラントが建設されていた。そこで労働者が次々と不可解な死を遂げる事件が発生。現地に派遣された保安官のオニールは、採掘会社が作業能率を上げるために労働者に麻薬を流している事実を突き止める。



 だが、イオは実質的に採掘会社による独裁状態が構築されており、捜査に当たるオニールを邪魔だと考えた会社側は、地球から殺し屋どもを雇い入れ、保安官を抹殺しようとする。殺し屋達がイオに到着するまでの間にオニールは周囲に協力を呼びかけるが、誰も応じない。仕方なく彼は、単身で複数の敵を相手にすることになる。

 結果は読めている映画だが、主人公が悪者を仕留める段取りに、SF映画ならではの仕掛けを応用しているところは面白い。敵方があまり強くないのが難点だが、テンポの良い演出で退屈しないで観られる。SFXの出来は及第点に達しているし、上映時間がさほど長くないのも良い。ジェリー・ゴールドスミスの音楽は快調だ。

 監督はピーター・ハイアムズだが、快作「カプリコン・1」を撮った勢いが続いていたと言えよう。ただし、ハイアムズはこの後大作「2010年」を演出したが、それからは質的に下降線の一途を辿る。今では高齢に差し掛かってきたが、ここらで今一度の奮起を期待したいものである。
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「冒険者たち」

2013-08-03 06:46:11 | 映画の感想(は行)

 (原題:Les Aventuriers )67年フランス作品。私が子供の頃にテレビの洋画劇場で見た記憶があるが、東宝系劇場で開催されている“午前十時の映画祭”において、今回初めてスクリーン上で接することが出来た。ジョゼ・ジョヴァンニの同名小説をロベール・アンリコが監督したもので、青春映画の秀作として根強い人気を持つ作品である。

 自動車エンジンの開発に没頭するローランと、無鉄砲なパイロットのマヌーは親友同士。そんな二人の前に、前衛女流彫刻家レティシアが現れる。三人は互いの夢を語り合い意気投合するが、やがてローランの仕事は行き詰まり、マヌーは詐欺に引っ掛かり飛行ライセンスを取り上げられてしまう。レティシアも全力を投入した個展が酷評され、三人揃って窮地に陥る。

 そんな中、かつてマヌーをペテンにかけた男から、コンゴ動乱の際に国外脱出を図って墜落した小型機が莫大な財宝を積んだまま沈んでいるという話を聞きつける。三人は逆境を脱するためにその話に乗るのだが、一方で財宝を横取りしようとするギャング共も暗躍していてた。

 一応は活劇の体裁を取っているのだが、それらしいキレ味を期待すると裏切られる。主人公達三人のプロフィール設定は甘いし、舞台がアフリカに移るくだりは漫然としているし、そもそもアクション場面もテンポが悪い。しかし、得難い魅力がこの作品にはある。それは、はかない夢とは知りつつもそれを追いかけずにはいられない、そんな青春時代のほろ苦さを切々と語りかけているからだ。

 もちろん、そんな“姿勢”だけでは良い映画になるはずもないが、本作にはそれを納得させるだけの御膳立てが整えられている。それはまず、キャスティングの素晴らしさを挙げねばならないだろう。ローランを演じるリノ・ヴァンチュラ、マヌーに扮するアラン・ドロン、ともに前向きなキャラクターでありながら、どこか捨て鉢な雰囲気を漂わせるところが絶品だ。

 ヴァンチュラは青年と言うには若くなく、無茶ができる時間は限られている。またドロンは、当時アメリカ進出が不調で失意の中フランスに舞い戻ってきたという事情も大きく影響しているのかもしれない。そしてレティシア役のジョアンナ・シムカスはただただ魅力的だ。まるで“この女のためならば全てを捨てて良い”と思わせるほどに。

 ジャン・ボフティのカメラによる清涼な映像と、映画音楽史上に残るフランソワ・ド・ルーベの名スコアが、作品の格調を押し上げている。クライマックスのバトルシーンの舞台になるボイヤール要塞島の存在感は、主人公達の見果てぬ想いを象徴していて圧巻だ。

 余談だが、観ている間に“ああ、テレビ放映ではこの部分でCMが入ったのだな”とか“オンエア時にカットされたのは、このパートだな”とかいう突っ込みを勝手に入れていた(笑)。テレビ画面で見たのは随分前なのに、やはり要所は覚えているものなのだ。
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大濠公園の花火大会に行ってきた。

2013-08-02 06:19:53 | その他
 昨日(8/1)は仕事の帰りに福岡市中央区にある大濠公園に寄り、恒例の花火大会を見物した。とはいえ、しっかり見ようと思ったら前日から場所を取っておく必要があるのだが、当方はそんなヒマはない。よって、今回も公園の近くで仰ぎ見るしかなかったのだが、それでもけっこう楽しめた。



 確か前回見たときは、花火が打ち上げられるスポットが二箇所だったような気がするが、今年は三箇所に増えていた。その分、賑々しく盛り上がったようだ。



 そういえば私が子供の頃、大濠公園の近くのビルに勤めていた親類がいて、そのビルの屋上で見物したことがあった。間近に見る打ち上げ花火は迫力満点だったことを思い出す。その建物は今はない。月日の流れを感じてしまう。
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