慶(きょう)聞(もん)抄(しょう)
2018(平成30)年5月号
(NO・54) 了雲寺 釈幸華
恵信尼さまのおしるし・こぶしの花
お坊さん姿
京都駅ビルの1階・「みやこみち」というレストラン・お土産街を友人と一緒に歩いていた時でした。すれ違いの男性・・アジアからの観光客・・がにこやかな様相で私に話しかけてこられたのです。英語ではない外国語ということだけしか理解できなかったのですが、私の布袍(ふほう・お参りの時のお衣、僧侶の普段着)と輪袈裟に反応されていたようでした。洋装の連れの2人が口々に、お坊さんに敬意を表してくださったのでは、と言ってくれました。
本山などの法要に出勤する際は、荷物をできるだけ軽くしようと、布袍・草履すがたです。そのため、電車の中では、足を組んだり居眠りするなどもっての外、極力お行儀よく振舞います。意識的に姿勢よくするようにもしていますし、当然「和顔愛語」。だからでしょうか、布袍がよく似合ってると友人たちは言ってくれます。とても嬉しいことですが、これって布袍に「お育ていただいて」いるんですよね。
恵信尼さまの法要にて
親鸞聖人の妻・恵信尼さまは、文永5(1268)年にご往生されたと考えられています。お念仏一つで救われるという法然聖人のみ教え(理論)が本当なら、結婚が往生の妨げにはならないはずと、お念仏一筋に歩まれた(実践)ご開山と生涯を共にされたのでした。
そんな方のお手紙が、大正時代になって初めて公表されたのですから大事件だったはずです。都でご開山の往生を看取られた末娘の覚信尼さまにあてて越後から書き送られたのでした。ご自分のことはほとんど書き残しておられないご開山の実像を、今に伝える貴重な資料とされています。特別布教の天岸淨圓師は、寛喜3(1231)年4月14日、聖人59歳、発熱で倒れられた時のことを取り上げられました。
臥して四日の朝、「まはさてあらん」と言われたので、(恵信尼さまが)「うなされなさいましたか」と尋ねると、「横になって二日目からずっと『大経』を読んでいた。まぶたに経の文字の一つ一つがはっきり全て見える。どうしてかなあ、よく考えてみれば、十七、八年前(初めて関東に来て、人々の洪水の被害を目の当たりにして)三部経を千回読もうと始めたものの、名号の他に何が不足で経を読もうとしているのか、と思い直して止めたことがあったが、やはりそんな考えが少し残っているのだろうか。人の自力にとらわれる心は、よくよく考えねばと思い直してからは経を読むことは止まった」と言われて、汗をおかきになり回復されました。
「まはさてあらん」・・そうだったのか、あの昔、仏さまのご恩を見失ってしまったことがあったなあ、その時のことか!・・聖人の口からこぼれ出た気づき。大変な時代をお二人でご苦労され、ご相談され、私たちにまでそのことを伝えてくださった恵信尼さま、さすが聖人の奥様!と、師はそのご法話を締めくくられたのでした。
上越市で、1957(昭和32)年、石塔発見。恵信尼文書にある塔と認定されました。。
女人禁制?!
土俵上で救命活動をする女性に「降りて」とアナウンスした日本相撲協会が顰蹙をかいました。苦々しく思っていたとき、Eテレ「100分で名著」で『法華経』を解説している植木雅俊氏が教えてくれました。
・・「シンガーラへの教え」で、妻の自立をみとめよ、妻を尊敬せよ、妻に宝飾品を買い与えよ、とあります。宝飾品は財産権。世界で初めて女性の自立と財産権を主張したのは釈尊なのでは。・・
まはさてあらん、仏教徒で良かった!
*お寺カフェ 第3水曜日 合掌
2018(平成30)年5月号
(NO・54) 了雲寺 釈幸華
恵信尼さまのおしるし・こぶしの花
お坊さん姿
京都駅ビルの1階・「みやこみち」というレストラン・お土産街を友人と一緒に歩いていた時でした。すれ違いの男性・・アジアからの観光客・・がにこやかな様相で私に話しかけてこられたのです。英語ではない外国語ということだけしか理解できなかったのですが、私の布袍(ふほう・お参りの時のお衣、僧侶の普段着)と輪袈裟に反応されていたようでした。洋装の連れの2人が口々に、お坊さんに敬意を表してくださったのでは、と言ってくれました。
本山などの法要に出勤する際は、荷物をできるだけ軽くしようと、布袍・草履すがたです。そのため、電車の中では、足を組んだり居眠りするなどもっての外、極力お行儀よく振舞います。意識的に姿勢よくするようにもしていますし、当然「和顔愛語」。だからでしょうか、布袍がよく似合ってると友人たちは言ってくれます。とても嬉しいことですが、これって布袍に「お育ていただいて」いるんですよね。
恵信尼さまの法要にて
親鸞聖人の妻・恵信尼さまは、文永5(1268)年にご往生されたと考えられています。お念仏一つで救われるという法然聖人のみ教え(理論)が本当なら、結婚が往生の妨げにはならないはずと、お念仏一筋に歩まれた(実践)ご開山と生涯を共にされたのでした。
そんな方のお手紙が、大正時代になって初めて公表されたのですから大事件だったはずです。都でご開山の往生を看取られた末娘の覚信尼さまにあてて越後から書き送られたのでした。ご自分のことはほとんど書き残しておられないご開山の実像を、今に伝える貴重な資料とされています。特別布教の天岸淨圓師は、寛喜3(1231)年4月14日、聖人59歳、発熱で倒れられた時のことを取り上げられました。
臥して四日の朝、「まはさてあらん」と言われたので、(恵信尼さまが)「うなされなさいましたか」と尋ねると、「横になって二日目からずっと『大経』を読んでいた。まぶたに経の文字の一つ一つがはっきり全て見える。どうしてかなあ、よく考えてみれば、十七、八年前(初めて関東に来て、人々の洪水の被害を目の当たりにして)三部経を千回読もうと始めたものの、名号の他に何が不足で経を読もうとしているのか、と思い直して止めたことがあったが、やはりそんな考えが少し残っているのだろうか。人の自力にとらわれる心は、よくよく考えねばと思い直してからは経を読むことは止まった」と言われて、汗をおかきになり回復されました。
「まはさてあらん」・・そうだったのか、あの昔、仏さまのご恩を見失ってしまったことがあったなあ、その時のことか!・・聖人の口からこぼれ出た気づき。大変な時代をお二人でご苦労され、ご相談され、私たちにまでそのことを伝えてくださった恵信尼さま、さすが聖人の奥様!と、師はそのご法話を締めくくられたのでした。
上越市で、1957(昭和32)年、石塔発見。恵信尼文書にある塔と認定されました。。
女人禁制?!
土俵上で救命活動をする女性に「降りて」とアナウンスした日本相撲協会が顰蹙をかいました。苦々しく思っていたとき、Eテレ「100分で名著」で『法華経』を解説している植木雅俊氏が教えてくれました。
・・「シンガーラへの教え」で、妻の自立をみとめよ、妻を尊敬せよ、妻に宝飾品を買い与えよ、とあります。宝飾品は財産権。世界で初めて女性の自立と財産権を主張したのは釈尊なのでは。・・
まはさてあらん、仏教徒で良かった!
*お寺カフェ 第3水曜日 合掌
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