2024(令和6)年 4月号(No.125) 了雲寺 釈幸華 |
慶聞抄(きょうもんしょう)
了雲寺・春の2番手の朱木蓮(1番手は梅)
愚僧のうちあけ話
先月号に、二人の仏婦大先輩にお会いした話の後、「今この時も、床に臥せっておられる方もおいでになる」と書いたのですが、そのうちのお一人が往生されました。
「仕事」柄、お葬式に「慣れている」私ではありますが、表白(ひょうびゃく)の終わりごろに不覚にも泣きそうになって慌てました。アカンアカン・・必死に声を張り上げて喉の奥の震えを押し込めたのです。心を込めてお勤めはせないかん。しかし、込めすぎては「仕事」にならん。進退きわまれり・・。
お逮夜参りにしろ、ご法事にしろ、お参りから帰るとそのままお内仏の前に座り、その日の報告と無事にお勤めできたことのお礼を申し上げることにしています。僧侶になり始めの頃、友人に「お葬式も出来るんやで」と自慢気味に言っていた私ですが、それが続いた時など流石に寺の娘に生まれた因果を思って、しばし如来さまを恨めしく見つめることもあるのです。
この度、オヨメの由美がお得度させていただきました。「正信偈」の暗唱という事前の課題をよう頑張りました。私の時は、今の彼女よりちょっと若い40歳の夏でしたけれど、寺に生まれながら暗唱まではできていませんでした。
しかも、父に京都に行ってこいと言われて「親鸞さんのことは勉強させてもらってもいいけど、お寺のことは知らんで。」と、また余計な憎まれ口をたたいたものです。その翌年の秋に交通事故で往生するのですから、ようその時にしといたなぁと思います。時に父は75歳。大腸癌の手術もしたし、やっぱりそういう時期にかかっていたのでしょう。
お坊さんにはなったものの、住職になるにはもう一段階「教師」資格がいります。母の介護も意識して早めに退職(直前に往生してしまいましたが)、中央仏教学院の通信教育(3年間)を受け出したのが58歳の秋でした。
その頃のスクーリングで京都に行った時のことです。学院の角坊(すみのぼう・親鸞聖人入滅の地)方面行のバスに乗り合わせた男性がいました。目的地が同じと見当がついたので声をかけると、北陸からの参加と言ってこんな話をされたのです。「うちの住職がえらいこと(たしか借金とか)しでかして逃亡したのです。ムラのものが集まって相談した結果、誰か京都に行って勉強して来い、という事になって私がそうすることになりまして。」
言う方も言う方やけど、受ける方も受ける方やなぁ・・。お伽話のような村落共同体が未だあったのですね。同じようなことは、ハワイやブラジル移民の日本人共同体でもあったやろうし、在日朝鮮人のハルモニ(お婆さん)からも聞いたことがあります。定住してしばらくしたら、何を置いてもお寺やと。
そもそも「僧」とは、サンスクリット語のサンガ・samghaの音写語で、修行者の集り、共同体を言います。そして釈○○の法名をいただいたという事は、時空(2500年の、日本とインドの)を越えて、お釈迦さまのお弟子になったということ。しかも立教開宗800年のこの年に!
はなむけに中仏の学びの受け売りを。
善き友が仏道の全てである。善き友とは仏道を歩もうとする人。善き友になることで、病まねばならない人間にして病より自由に、死なねばならない人間にして死より自由に。
不思議なご縁で、また一人僧侶が誕生しました。ようこそ了雲寺サンガへ!ようこそ石川南組・浄土真宗本願寺派サンガへ!
合掌
あっ! 虹が・・!
学校行くの⁈ 行かないの⁈ 12
坊守の由美です。
待ちに待った春が来ました。心が弾みますね。なんだかウキウキします。
しかし、春は、卒業、入学シーズンです、不登校児を持つ母親にとっては、辛い時期なんです。
同級生たちが晴れ晴れした姿で式を迎えて、写真を撮ったり、感激で涙したりしているのに、うちは・・・と曇りがちになってしまいます。
卒業式、入学式は、絶対行かないといけないものではありません。
学校に行くのに抵抗がある子どもなら、欠席でも大丈夫です。後日、本人か家族が卒業証書、または詳細を聞きに行けばよいのです。
卒業式だけは・・入学式くらいは・・という母親の気持ちは良く分かりますが、友達が一人もいない式に参列して、針を刺される思いをさせるのはいたたまれません。
親の思いだけで無理強いするのは、今後の親子関係に影響します。
式に参列できないなら、家でケーキでも買ってお祝いをするのはどうでしょうか?賞状なんかも作って、授与しても良いですね。
お母さんが「100点満点、良くできました❤卒業おめでとう㊗」と言えば、それが一番思い出に残る素晴らしい式になるはずです。
誰が何と言おうとも、お母さんの一言が絶大な影響力があります。
子どもの一番の応援陀長であってほしいですね。
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