慶(きょう)聞(もん)抄(しょう)
2017(平成29)年12月号
(NO・49) 了雲寺 釈幸華
12月のしつらえ
痛ましや
神奈川県座間市で起こった9人もの殺人事件、どうしてこんなことになってしまったのか、どんな「さるべき業縁」がこの人に起こったのか驚くばかりですが、SNS(携帯電話などで繋がるインターネットを利用したサービス)の存在が、小さな悪魔を凶暴なモンスターにしてしまったのは確かです。文明の利器はここでも、使い方を間違うととんでもない災いをもたらすという面を見せつけました。
*「さるべき業縁のもよおせば、いかなるふるまいもすべし」(歎異抄 第13章)
また、自殺願望を抱く若い人が多いことにも驚きます。死にたい気持ちになるということは、それほど辛い、キツイ思いをしているということで、本当は死にたくない、生きたいのだということが容疑者の供述で分かります。人間関係が希薄であれば、何となく心に空洞を抱えていたり、寂しかったりする場合でもそんな気持ちが起こることもあるように思います。もしそうなら、身近に話を聞いてくれる人がいるだけでいいことになります。多くの場合、人は自分を受け入れてくれる人がいてくれるだけで単純に嬉しいものです。そしてそれは自己肯定感となり、自信となり、「明るく元気」でいられるのです。逆に、バカにされ疎まれ否定され続けると、生きる力が失われていきます。それが最も進んだところで何かきっかけがあれば、罪を犯す事態になるのではないでしょうか。
「蓮如上人御一代記聞書(末)」を読んでいると、こんな文章に出会いました。
蓮如上人
たとえ事実でないことであっても、人が注意してくれたときは、とりあえず受け入れるのがよい。その場で反論すると、その人は二度と注意してくれなくなる。人が注意してくれることは、どんなことでもこころにに深くとどめるようにしなければならない。このことについて、こんな話がある。二人のものが、お互いに悪い点を注意し合おうと約束した。そこで、一人が相手の悪い行いを注意したところ、相手のものは「わたしはそうは思わないが、人が悪いというのだからそうなのでしょう」といいわけをした。こうした返答の仕方が悪いというのである。事実でなくても、とりあえず「たしかにそうだ」と返事しておくのがよいのである。
余裕ですね。この少し後にこう続きます。
(蓮如上人の弟子の)順誓が、「世間の人は、自分の前では何も言わずに、陰で悪口をいうといって腹を立てるものである。だが、わたしはそうは思わない。面と向かっていいにくいのであれば、わたしのいないところでもよいから、わたしの悪いところをいってもらいたい。それを伝え聞いて、その悪いところを直したいのである。」といわれました。
・・・仏法を聞いておられる人は、自分は「罪悪深重(じんじゅう)の凡夫」。人が何言おうが先刻ご承知。これって結局、究極の自己肯定感という事になりません?・・
嬉しやなぁ
歌とピアノのご法話で楽しんでいただいた報恩講さん。実は、更に嬉しいことが翌日あったのです。勉強仲間が3人、サプライズでお参りしてくださっていたのですが、翌晩の御堂さんでの講座で、うちお二人にまた再会。すると、口々に「昨日は良かった!」とおっしゃるのです。「他のお寺にもお参りさせて貰うけど、あんなに優しくしてもらったのは初めて。嬉しくて涙が出て・・これが真宗のご門徒さんっていうのやなぁと思いました。」いやいや、そんなことは普通でしょう、よっぽど酷いところにお参りされたのでは、と聞き直したほどで、私の方が嬉しくなって涙が出ましたよ。
今年の報恩講さんのお荘厳
*お寺カフェ 12/20 1月は仏女の新年会で 合掌
2017(平成29)年12月号
(NO・49) 了雲寺 釈幸華
12月のしつらえ
痛ましや
神奈川県座間市で起こった9人もの殺人事件、どうしてこんなことになってしまったのか、どんな「さるべき業縁」がこの人に起こったのか驚くばかりですが、SNS(携帯電話などで繋がるインターネットを利用したサービス)の存在が、小さな悪魔を凶暴なモンスターにしてしまったのは確かです。文明の利器はここでも、使い方を間違うととんでもない災いをもたらすという面を見せつけました。
*「さるべき業縁のもよおせば、いかなるふるまいもすべし」(歎異抄 第13章)
また、自殺願望を抱く若い人が多いことにも驚きます。死にたい気持ちになるということは、それほど辛い、キツイ思いをしているということで、本当は死にたくない、生きたいのだということが容疑者の供述で分かります。人間関係が希薄であれば、何となく心に空洞を抱えていたり、寂しかったりする場合でもそんな気持ちが起こることもあるように思います。もしそうなら、身近に話を聞いてくれる人がいるだけでいいことになります。多くの場合、人は自分を受け入れてくれる人がいてくれるだけで単純に嬉しいものです。そしてそれは自己肯定感となり、自信となり、「明るく元気」でいられるのです。逆に、バカにされ疎まれ否定され続けると、生きる力が失われていきます。それが最も進んだところで何かきっかけがあれば、罪を犯す事態になるのではないでしょうか。
「蓮如上人御一代記聞書(末)」を読んでいると、こんな文章に出会いました。
蓮如上人
たとえ事実でないことであっても、人が注意してくれたときは、とりあえず受け入れるのがよい。その場で反論すると、その人は二度と注意してくれなくなる。人が注意してくれることは、どんなことでもこころにに深くとどめるようにしなければならない。このことについて、こんな話がある。二人のものが、お互いに悪い点を注意し合おうと約束した。そこで、一人が相手の悪い行いを注意したところ、相手のものは「わたしはそうは思わないが、人が悪いというのだからそうなのでしょう」といいわけをした。こうした返答の仕方が悪いというのである。事実でなくても、とりあえず「たしかにそうだ」と返事しておくのがよいのである。
余裕ですね。この少し後にこう続きます。
(蓮如上人の弟子の)順誓が、「世間の人は、自分の前では何も言わずに、陰で悪口をいうといって腹を立てるものである。だが、わたしはそうは思わない。面と向かっていいにくいのであれば、わたしのいないところでもよいから、わたしの悪いところをいってもらいたい。それを伝え聞いて、その悪いところを直したいのである。」といわれました。
・・・仏法を聞いておられる人は、自分は「罪悪深重(じんじゅう)の凡夫」。人が何言おうが先刻ご承知。これって結局、究極の自己肯定感という事になりません?・・
嬉しやなぁ
歌とピアノのご法話で楽しんでいただいた報恩講さん。実は、更に嬉しいことが翌日あったのです。勉強仲間が3人、サプライズでお参りしてくださっていたのですが、翌晩の御堂さんでの講座で、うちお二人にまた再会。すると、口々に「昨日は良かった!」とおっしゃるのです。「他のお寺にもお参りさせて貰うけど、あんなに優しくしてもらったのは初めて。嬉しくて涙が出て・・これが真宗のご門徒さんっていうのやなぁと思いました。」いやいや、そんなことは普通でしょう、よっぽど酷いところにお参りされたのでは、と聞き直したほどで、私の方が嬉しくなって涙が出ましたよ。
今年の報恩講さんのお荘厳
*お寺カフェ 12/20 1月は仏女の新年会で 合掌
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