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時悠人chosan流処世術

☆富士山への手紙

2005-02-18 14:08:14 | 日記・エッセイ・コラム
 2005年2月16日、思いがけない贈り物が届いた。富士宮市が主催する「富士山への手紙・絵コンクール」の「手紙の部」に佳作入選した知らせだった。富士山への思いやエピソードを公募するものだが、応募したことをすっかり忘れていただけに、予期せぬご褒美を頂戴し心嬉しくなった。

 手紙の部門は、小学生低学年、同高学年、中学生、高校生・成人の4部門に分かれているが、応募総数が4000通近くにのぼり、三次の予備審査を経て最終審査が行われる。審査委員長は作家の村松友視さんが務める。応募数の多さから、日本国民の富士山に寄せる思いの程がうかがえる。

 受賞作を幾つか読んでみて、感動を呼ぶ作品は技術的な巧拙ではなく、エピソード自体が持つ迫真力にあるのだと感じた。小学生高学年の部の最優秀賞を受賞した作品と私の小作をご紹介する。

 「富士山、ぼくは二つのあなたを知っています。一つは、遠くから見て、青々として美しいあなた。もう一つは、登ってみたときの岩だらけのごつごつしたあなた。そのどちらも同じ富士山で、山も人も同じで、いろんな顔を持っているんだと感じました。
友達と仲良く遊ぶぼく、弟にいじわるをしてしまうぼく、勉強をがんばるぼく。時々、わがままをいってしまうぼく。いろんなぼくがいて、健太郎なんだよね。今年、あなたに登ってみて、あなたの厳しさもわかりました。がんばってのぼりきった達成感は忘れません。苦しくっても逃げないぼくをみつけました。これから苦しいときあなたをみて、がんばろうと思いました。」(S君小6)

 「昭和46年11月10日。東海道線大船駅から徒歩15分。「風呂なし、トイレ共同」の六畳一間が私達夫婦の出発点になった。勤め先は東京。だが、当時の給料では都心に住めなかった。 朝早く家を出て、遅く帰宅する生活に、「何のために上京したのだろう?」とぼやく私をなぐさめ勇気付けてくれたのは、妻の笑顔と富士山だった。 
 冬晴れのある日、アパートのトイレから窓越しに富士山が見えた時の鮮烈な感動は、今も脳裡に刻み込まれている。「いつか、富士山を近くに見て暮らしたい」と、その時心ひそかに誓った。 一昨年、転勤生活に終止符をうち、生まれ故郷の金沢に戻ったが、加齢とともに寒さが身にこたえるようになってきた。温暖な気候の中で、残りの人生を心静かに過ごしたいと願う気持ちが日増しに強くなってくる。妻の持病の腰痛予防のためにも「いつか、きっと」の夢をかなえたい。」(chosan作)