まったり☆てぃ~たいむ

いくら寝ても眠いのは何故?(・ω・*)?

龍馬伝 第3回

2010-01-17 23:11:09 | ドラマ

第3回

『偽手形の旅』





藩からの許しを得て、龍馬の江戸行きが決定。

父から三ヶ条の心得を渡され、

龍馬は土佐を旅立つ。

父の知り合いである溝渕広之丞が同行し、

共に江戸へ向かていたが、

龍馬の後をいつの間にか弥太郎が追いかけて来ていた。

弥太郎は通行手形を持っていた。



最初の関所・立川番所で弥太郎は「倉田安兵衛」と名乗る。

驚く龍馬と溝渕。


弥太郎が持っていたのは偽手形だった。

溝渕は、そんな者を同行させたらこっちの身も危ないと、

弥太郎を追い払おうと言うが、

龍馬は幼なじみである弥太郎を

放っておくことは出来ないと。



そんな時、弥太郎は父親の借金のことで絡まれ、

龍馬が助けに入る。


「わしは人間ができちょらん。

あんなことで刀を使こうてしまうとは、

父上に申し訳が立たん。」


心得を見ながら溝渕に話す龍馬。

それを聞いていた弥太郎。

弥太郎は夜中にその心得を盗み見る。


「おまんのお父上も同じじゃと思うぞ。」


龍馬は弥太郎が見てることに気付き言った。

しかし弥太郎は「なんも知らんくせに。」と。


「わしじゃて、わしなりに覚悟をして土佐を出たじゃが。

この先どうなるか分からんは、おまんと一緒じゃ。」


「おまんと一緒?

おまんは飢えを知っとるか?

朝起きたら家族の誰かが

息を引き取っているかも知れん。

そんな思いをしたことがあるか?

百姓同然に畑を耕しながら、

這い上がりたい、這い上がりたい。

その思いで必死に本を読んだじゃが。

わしは何もかも捨ててきたじゃが。

何もかもの。

おまんと一緒にすな!」



翌朝、龍馬は一緒に江戸に行こうと弥太郎に言う。

弥太郎の覚悟が分かったと。



四国の最後の番所へ着いた龍馬たち。

そこで弥太郎は再度吟味すると言われ、

龍馬は一緒に旅して来たと言い、

なんとかしようとするも、

お前達は行っていいんだと言われる。

すると突然弥太郎が赤の他人だと言い、

土佐に帰ると言い出した。

それでもどうにかしようと必死になる龍馬に、


「あいつは、自分の志をおまんに託したがじゃ。」


と溝渕に止められる。



龍馬と溝渕は船で海へ。

すると、番所を逃げて来た弥太郎の姿が!!

手を振る龍馬。


「おまんの志もわしが背負うて江戸へ行っちゃる!!」


「江戸で野垂れて死にやがれ!!

お前なんか嫌いじゃ~!!」


「分かっちょう。

お前の分も頑張るきに!!」





弥太郎、どうなることかと思ったけど、


最後は赤の他人だとか言って


迷惑かけないようにするなんてね。


まぁ、良かったです。


武市もきっと江戸に行きたいんだよね。


行きたいけど行けない・・・


なんとももどかしい。


以蔵は武市の下で頭角を現してきましたかね。


龍馬はとうとう江戸へ!!


楽しみです♪



第1回 第2回

コメント (8)
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阪神淡路大震災から15年・神戸新聞の7日間~被災地に生きた記者たちの闘い~

2010-01-17 22:32:35 | ドラマ

『5時46分・震度7発生

本社崩壊…家族の死…

被災しながらも市民の為に新聞を出し続けた記者達の闘い…

瓦礫の街に届いた希望と絆…胸に迫る実話』





1995年1月17日 午前5時46分。

震度7を記録した阪神淡路大震災。

日本で初めて近代都市に起きた直下型の大地震だった。



神戸新聞社で生き残ったのは2本の電話回線のみ。

新聞社の人たちも被災者なのに、

被災者たちは情報を欲しがっているはずだと編集局長。

しかし新聞社自体機能を失っていて、

新聞を発行することが難しい。


「この非常時に新聞を出せなければ、

新聞社が新聞社としての使命を失う・・・」


編集局長・山根は提携を結んでいた京都新聞社に連絡。


「そちらでうちの新聞作らせてくれませんか?」


そして臨時編集部を設けさせてもらう。


記事と写真は神戸、編集レイアウトは京都、

神戸の印刷場が奇跡的に助かり、そこで印刷することに。



被災地を取材する記者たち。

自らも怪我を負いながら取材し、写真を撮り続ける。

街の人から非難されることも・・・



漸く京都に辿り着いたものの、締め切りに間に合わず・・・

原版は京都側で用意したもの、

写真は通信社のものを使用することに。

悔しい記者たち。



夕刊を自分たちの力で発行出来なかった悔しさから、

怪我の手当てもせずに翌朝の朝刊作成に。



その頃、神戸新聞社本社は「全壊」の判定を受け、

最低限の荷物だけ持って退去。



夕方第2便が京都に届けらた。

その写真を目にした三津山は、

街が壊れつつあることを思い知らされる。



京都新聞社でコンピューターを自由に使えるのは30分。

紙面は3ページのみ。

しかし撮るべき写真も、伝えたいことも沢山ある・・・



やっとの思いで新聞を作った。

しかし販売員たちの多くも被害に遭い、配達する人がいない。

そんな中でも、家族で配達に出掛ける販売員も・・・



神戸に戻った三津山。

やっと他の記者たちと一緒に現場に立てると

張り切る三津山だったが、

そこには厳しい現実が待っていた・・・



三津山は臨時遺体安置所に向かった。

そこには夥しい遺体の数・・・

シャッターを切るどころか、目を背けることしか出来なかった。


「何をすればいいのか・・・分からなくなっていた・・・

何をどう撮れば良いのか分からないまま、

僕は被災地を闇雲に歩いた。

でも・・・怖い。

やっぱりシャッターを押すことが・・・怖い。」



そんな状況にカメラマン・三津山は山根に問う。


「苦しんだり悲しんだりしている人の写真を撮ることに

どんな意味があるんでしょうか?」


「ある日突然地震が起こって命が奪われた。

お前だったらどう思う?

今は、それを記録して伝える。

それが俺ら新聞記者の役目や。

この仕事を続けるなら、三津山、逃げるな。

人間撮って来い。」



「何処へ行っても地獄のようだ。

今、写真を撮って記録を残さなければいつ残すんだ。」


そう言う金居と、

それになんの意味があるんだと言う三津山たち。


山根もどう伝えたらいいのかと考えていた。


社説担当の三木の父親が倒壊した家の中に置き去りになってる。

そんな三木に山根は社説を書くよう依頼。

三木が原稿を考えてる頃、父親の遺体が見つかるが、

三木は感情を見せず記事を書く。

そして翌朝の朝刊の社説が一面に載る。


『被災者になって分かったこと』


被災者の気持ちが本当に分かってなかったと・・・


それを読んだ首藤デスクは、


「もう暗い記事はやめよう!!

必死で生きている人たちの姿を載せよう。

明るい記事で満たそう!!」



そんな中、三津山のかつての先輩の訃報を知る。

遺影もないお葬式に出かけた三津山。


「彼女が生きていたという証を残したいんです。

写真・・・撮って良いですか?」


先輩の祖母に了解を取り、

泣きながらシャッターを切る三津山。


(その時僕は、自分に出来ることをやろうと決めた・・・)



それ以来、被災地の写真を撮って歩くようになった三津山。

新聞も次第に生きる希望を載せるようになって行った。

そして神戸新聞社のホストコンピューターが復旧し、

京都新聞社に臨時編集部を置いていたデスクたちも、

京都を後にする日がやって来た。


「神戸新聞はこれからもずっと震災を伝えて行く!!

絶対に忘れない。」





明日は我が身・・・か?


宮城も結構地震が多いからね。


宮城県沖地震もまた来るって言われてるし。


昨日の夜も実は地震ありました。


会社にいる時と、電車に乗ってる時と、


お風呂入ってる時に来て欲しくはないなぁ・・・



しかしもう15年も経ったんだね。


ホント大変だったでしょうに・・・


翔くんも頑張ったね。

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