farm note 農便り

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小さな仏像

2025-02-27 10:53:54 | Weblog

昨日農協の営農相談会後直小字の集会所の仏像を写真を撮るため大急ぎ。
丁度同級生で村の歴史に詳しい、地元歴史家の新谷一幸さんとスマホ撮影しました。過日文化庁の吉野さんの地域史の話を聞いていたので、即の行動でした。
その像にきずいていたのは、Uターンし村の女性達が行っていた観音講や、宮講などしているうちにきずいていました。誰もそれほど関心を示さずなにも何なのかわからないが、小さな堂に収まっている像の前下で、先祖供養を兼ねた観音講を行っていました。やっとこれから衆人に目にさらに出る機会と「なりました。今後市の文化財関係の専門員さんの調査をその内され、その仏像の遍歴が明らかになるでしょう。このお堂の側を流れる山側の奥から縄文時代?らしき石器が見つかっていますので、古い地域なのだと思われます。
仏像は拡大して撮ったのでボケて、また金網が張られているので。はっきり取れませんが、同級生君はさすが慣れたものでたくさん撮っていました。

このお堂の中で、村の女の子たちは馬乗り飛びなど大胆な遊びに興じていたことを懐かしく思います。これは70年前のことです。そして今ユータンして老齢になり始めて仏像を意識し、その前でご詠歌、般若心経を熱心に上げていました。その後はおしゃべり茶話会でした。それもコロナの影響で中止となり現在に至り、そろそろ再開が必要なのかと思います。コロナを機に何もかも変化し、これまでの古い行事も消えそうな昨今で、続けるべきか、消えるのかの瀬戸際に立っている気がします。
数年前、亡くなった幼馴染のSちゃんが観音講をしたそうにしておられたのに、コロナでできなかったことがとても残念に思っています。
Sちゃんの顔が浮かんできます。病でしんどい思いをしておられたのに、みんなに会いたがっておられるように感じていました。でもコロナが邪魔をしました。
こんな具合に古い時にはうっとしく感じられた村の行いも自然消滅の現代です。もう宮講もずっとお休みでこれも少子子高齢化の影響を受け始めています。人口が減るばかりの村では続行するのが大変になりました。

私の場合、何も知らず村を進学を理由に離れ、東京に収まらず外国まで冒険できたのは、うっとしく思われる故郷があったから安心して冒険の旅へ漕ぎ出せたのだと実感します。
村とのきずな的な基地があったから細い糸も切れず降り戻された感じでした。
人のよりどころがな消失してしまうと、問題多い広い世界の中に小さく放り出されそうです。いつ大きな外の「力に飲み込まれそう現代で、どうなるのでしょう。
ウクライナを見ていると、何故か不安になってしまいます。
そこで小さな像に希望を託したい。
人と人をつなぐ役割を像に求めたいような気がします。
20歳代、京都の古美術商、京都山中で数年過ごしていなかったら、ずっと無関心で過ごせたかもしれないが、今大切にするべきものにきずき始めています。年を重ねないとわからないことかもしれないです。

村にひっそり住まっている仏像二体の来歴に興味深々です。
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