福島第一原発の事故以来
あらゆることを
「放射能」というフィルターを通して
見るようになってしまった。
ところが
その「放射能」が目に見えないから
始末におえない。
公的機関が公表している
放射能の調査結果を見ても
実際に我が家の庭で測定した数値と開きがあるものだから
不安はつのる。
自分は過剰に反応していないだろうか?
そう思う時もある。
しかし
見えないことに加え
誰の話が正しくて
将来どうなるのか?
わからない以上
不安を打ち消すことが出来ないのだ。
マスクに帽子にねずみ男のようなフードをかぶり
外に出かけても
殆どの人達が
なんの防御もせずに歩いている。
この平穏さがかえって不気味である。
「絶対に大丈夫だ。」と
言っていた原発が
こんなにもろくも壊れてしまった以上
「大丈夫」と言っていた人達の言葉を
信じろと言われても
それは虫のいい話ではないか。
「今私達にできること。」という言葉を聞くたびに
「欲しがりません勝つまでは。」を思い出してしまう。
福島第一原発はまだ閉じられていないのだ。
私が住んでいる所より
もっともっと原発に近いところに住んでいる人達の事を思うと
このような事を書いても良いものだろうか?とも思う。
不安を煽ることになりはしないだろうか?
だが
不安を抱えて黙っているより
不安なものは不安だと言ったほうが
多分最悪な所までは行かないような気がする。
それは
歴史が証明している。
あらゆることを
「放射能」というフィルターを通して
見るようになってしまった。
ところが
その「放射能」が目に見えないから
始末におえない。
公的機関が公表している
放射能の調査結果を見ても
実際に我が家の庭で測定した数値と開きがあるものだから
不安はつのる。
自分は過剰に反応していないだろうか?
そう思う時もある。
しかし
見えないことに加え
誰の話が正しくて
将来どうなるのか?
わからない以上
不安を打ち消すことが出来ないのだ。
マスクに帽子にねずみ男のようなフードをかぶり
外に出かけても
殆どの人達が
なんの防御もせずに歩いている。
この平穏さがかえって不気味である。
「絶対に大丈夫だ。」と
言っていた原発が
こんなにもろくも壊れてしまった以上
「大丈夫」と言っていた人達の言葉を
信じろと言われても
それは虫のいい話ではないか。
「今私達にできること。」という言葉を聞くたびに
「欲しがりません勝つまでは。」を思い出してしまう。
福島第一原発はまだ閉じられていないのだ。
私が住んでいる所より
もっともっと原発に近いところに住んでいる人達の事を思うと
このような事を書いても良いものだろうか?とも思う。
不安を煽ることになりはしないだろうか?
だが
不安を抱えて黙っているより
不安なものは不安だと言ったほうが
多分最悪な所までは行かないような気がする。
それは
歴史が証明している。