福島県の子供たち県内外に転校

2011-08-23 01:42:30 | 議会活動
先日福島からお子さんと避難されているお母さんから福島県内の子供たちの様子をお伺いする機会がありました。その後ネットで調べていましたら、夏休みを区切りとして福島県内外へ転校される児童生徒が急増しているそうです。

国は20ミリシーベルトまでは安全と言っているようですが、市民はお上の言うことなど信用せず、子供たちを守るための自衛手段に訴えているのです。小学校では全体の1割弱、中学校でも6%にも及ぶ転校者の数字はそのまま政治への不信感のあらわれといってもいいでしょう。

しかし自主転校や引越しは多額の費用もかかりますし、家族がバラバラになり、家庭崩壊の危機でもあります。引越ししたいけど事情があってできないというご家庭も含めればその数は表面に現れた数字の何倍にもなるでしょう。国はこの実態を放置して置くつもりなのでしょうか。

福島の小中高生 1万4000人 転校や希望

 東京電力福島第一原発事故後、福島県から県内外へ既に転校した小中高生や希望者が1万4176人に上ることが8日、県への取材で分かった。このうち小学生は1万144人で、県内の全小学生約11万7千人(昨年5月時点)の1割弱。中学生は3千939人で全中学生の6・3%。 二学期に入るまでに転校希望者数はさらに膨らむとみられる。
 県によると、県外への転校の割合が高く、夏休み中に希望する小中高生は1030人。原発事故の発生から7月15日までに、小中学生だけでも計7千672人が県外に転校したという。
 これまで原発事故による福島県外への子どもの流出が指摘されていたが、転校の実態が明らかになったのは初めて。
 事故から5カ月近くたっても歯止めが利かず、次世代による復興に支障を及ぼしかねない事態といえそうだ。放射線への不安が大きく影響しており、県学校経営支援課の田代公啓課長は「特に小学生の保護者の間で心配が広がり続けているようだ」としている。県外転校を希望する1130人の内訳は、小学生918人、中学生163人、高校生49人。 警戒区域や緊急時避難準備区域などに指定された地域の子どもが中心とみられる。転校先の詳細は不明だが、全国各地にわたるもようだ。
 県内に転校のケースでは、小中学生4千575人が7月15日までに移り、小中高生799人が夏休み中に希望している。
 原発事故の避難者や津波の被災者が家族で仮設住宅に入るのに伴い、子どもを転校させるケースが目立つという。
 県は、各市町村教育委員会から情報収集し、子どもの転校の実態調査を進めていた。(東京新聞 2011年8月9日 朝刊)

脱原発への国民の支持は75%

2011-08-22 19:07:04 | 雑感
共同通信は8月20日と21日にかけて全国電話世論調査を実施しました。そのねらいは菅直人首相退陣後の政権のあり方について聞くものでした。その質問事項の中に「菅首相の『脱原発依存』を次期首相が引き継ぐことに対してどう考えますか」というものがありました。

その結果は「賛成」41.2%、「どちらかといえば賛成」34.3%、「どちらかといえば反対」11.4%、「反対」8.8%というものでした。

「脱原発依存」への「賛成」と「どちらかといえば賛成」をあわせれば75%、国民の4人に3人が支持していることになります。

私も菅首相のこれまでの政治のやり方には大いに疑問でしたし、首相は国民の期待を裏切って来たと思っています。しかし、中部電力の「浜岡原発の停止」や「脱原発」の表明などは賛同できるものでした。

これから民主党で新しい首相が選出されることと思いますが、こと原発に限っては菅首相の示した「脱原発依存」という方針を掲げて行ってほしいと思います。

福島の子供たちのお話をお聞きしました

2011-08-21 05:33:25 | 議会活動




20日は午後から「福島の子供たちを放射能から守ろう」というお話しの会を中央公民館で開きました。市内外から30人ぐらいの方がおいでになり、熱心にお話をお聞きいただきました。

講師の方は福島県の一番南、栃木県境にある西郷村の森永さんとおっしゃる女性の方です。小学校のお子さんがいらっしゃって放射能を避けるために5月から白馬村に自主避難してきています。西郷村は白河市と隣接し、新幹線白川駅、東北自動車道白川ICがある人口2万人の村です。

福島の子供たちは放射能にさらされ食べ物ものも放射能に汚染されています。こうした中で森永さんはこの夏、支援者の援助も得て、白馬村で子供たちを放射能から避難するための受け入れ活動を行なって来ました。一番多かった時で40人のご家族を受け入れたそうです。

しかしこうした自主避難ができるご家庭は決して多くはありません。避難したくても家族の賛同が得られなかったり、経済的に避難できなかったりして家族の結束にひびが入ることも多々あったそうです。放射能を避けるために給食のミルクを飲ませなかったことがいじめにつながったこともあったそうです。放射能汚染が住民の心の絆まで奪ってしまっています。

しかし国も県も子供たちを守るという責任を果たしていません。子供たちへの被曝線量の限度を文科省は1ミリシーベルトから20ミリシーベルトにまで引き上げています。本来であれば細胞分裂の盛んな子供たちこそ被曝から逃れなければならないのに、原発で働く作業員のレベルと全く同じ限度にまで引き上げたのです。

こうした中で森永さんたちは住民組織、「子供たちを放射能から守る福島ネットワーク」を結成。お母さん達と連絡を取り合って活動を進めているそうです。私たちもこれまでは福島のことはテレビで見るだけで何も知りませんでした。しかし子供たちをめぐる環境がこれほど厳しいとは思いませんでした。

講演後、参加された皆さんとの熱心な質疑応答がありました。私ももっと福島のことを知らなければならないと思いました。

国の原発政策に慢心の怒り!

2011-08-19 23:38:43 | 雑感
7月27日、衆議院厚生労働委員会において東京大学の児玉龍彦教授が国の福島原発事故に対して満身の怒りを爆発されました。先生は「なぜ3ヶ月もたって政府は何も行おうとしないのか!満身の怒りを表明します」とおっしゃいました。

まだ日本にもこれだけ骨太の学者がいたのかと思うと救われる思いがします。これまで多くの原子力村の御用学者ばかり見てきた私としてはすがすがしささえ覚えます。このユーチューブは50万人の方が見られたそうです。衆議院厚生労働委員会というお堅いところでのご発言。普通であればほとんど誰も注意を引かない動画が50万回見られたというのは驚きです。どうぞご覧ください。

衆議院厚生労働委員会における児玉教授の発言

その後の先生のご活躍の様子も掲載されていました。こちらもご覧ください。

児玉教授の福島での除染活動

テレビ朝日、福島原発の問題点を指摘!

2011-08-19 22:57:40 | 雑感
‎2011年8月18日(木)、テレビ朝日モーニングバードの「そもそも総研」でこれまでの政府の福島原発事故に対する対応の問題点が放送されていました。とてもわかりやすくコンパクトにまとめてあります。前半部分と後半部分の2部に分けてリンクを張りましたのでご覧ください。緑色の文字をクリックしてください。
●テレビ朝日モーニングバード(その1)

●テレビ朝日モーニングバード(その2)


上記が削除されました。下記にリンクを張りなおします。少々早口になっています。(8月22日)

●テレビ朝日モーニングバード(再掲)

民意はどこにあるのか?

2011-08-19 21:22:01 | 議会活動
昨日の信濃毎日新聞に長野市議会が住民投票条例を否決したという記事が載っていました。

長野市議会、住民投票条例2案を否決

 長野市議会(40人)の9月定例会は最終日の17日、長野市役所第1庁舎と長野市民会館の建て替えの是非を問う住民投票条例案について、住民グループの直接請求による案と、市議会会派の政信会(4人)と市民ネット(2人)が共同提出した案を否決した。鷲沢正一市長は閉会あいさつで、建て替えの議論は「一定の区切りが付いた」と述べ、予定通り2014年度の完成を目指す考えを示した。

 住民グループ「市役所第一庁舎・長野市民会館の建て替えの是非を問う住民投票条例の制定を求める会」の案は2施設の建て替えを一括で、2会派の共同提出案は別々に問うなどの内容。本会議では、総務委員会による否決結果の賛否について、最大会派新友会(20人)に所属する議長を除く39人で起立採決した。

 住民グループ案は、共産党市議団(6人)と無所属2人の計8人が総務委の否決結果に反対、ほかの31人は賛成した。政信会・市民ネットの共同提出案は、この2会派に加え、共産党市議団、公明党市議団(5人)、無所属1人の計18人が総務委の否決結果に反対し、賛成は21人だった。住民投票実施を求める請願も賛成少数で否決された。

 条例案に対する質疑、討論では、制定に賛成する立場の議員が「市議には住民参加の市政を実現する責任がある」と主張。反対の議員は「さまざまな意見に耳を傾けながら議論し議決してきた。実施は不要」と述べた。信濃毎日新聞(平成23年8月18日付)


市民会館や市庁舎建て替えの賛否について住民投票を実施してほしいという市民の願いは絶たれました。直接請求された2万5千人の市民の願いは水泡に帰しました。どうなるのか個人的にも注目していましたので残念でなりません。

住民投票に反対される議員の皆さんの言い分は、「すでに議会で決まったことだ」「住民投票は議会制民主主意にそぐわない」などというものです。しかし長野市の議会基本条例には議員の任務として「 市民の意思を的確に把握し、市政及び議会活動に反映させること」をあげています。もう少し市民に歩み寄った対応はできなかったのでしょうか。

市議会の皆さんもご自分が民意を反映していると思っていらっしゃるのであれば、正々堂々と住民投票を実施すればよかったのではないでしょうか。そうすれば民意がどこにあるのか明々白々となります。

安曇野市でも市庁舎の建て替えについての住民投票を求める運動が始まっています。「決まったことだから」などとはねつけるのではなく、民意がどこにあるのかをしっかり確認することが大切だと思います。

昨年11月に行われた佐久市の市民会館建設に対する住民投票では、「建設すべきでない」という民意がはっきり示されました。市民のハコモノに対する目の厳しさをひしひしと感じました。ましてあの3・11以来、財政をめぐる環境は大きく変わっています。

「大切なことは住民投票で決める」、これがあたり前の時代はもうすぐそこまできています。

今年の夏も終わりですね

2011-08-19 17:43:23 | 雑感
今日は一日雨模様でした。昨日までの暑さから一転して肌寒いほどでした。昨夜は始めての虫の音が聞こえ秋の訪れを感じました。夏休みも終わり学校も始まっています。今年の夏も終わりですね。皆様の夏はいかがでしたでしょうか。

私は7月はブドウで、8月に入ってからは孫の世話で忙しく、お盆からは風邪を引いて5日ぐらい寝込んでしまいました。そのため15・16日に予定していた1泊2日の財政研修会を急拠欠席することになり関係者の方々にご迷惑をおかけしてしましました、

そんなこんなでやっと今日から仕事始めです。午前中は市役所へヒアリングに行きました。雨は午前中に上がったので、午後は久しぶりにブドウ畑の草刈りをしました。

仕事がたまっているのも気にかかっています。来週からは会派の視察があります。そして9月6日からは9月議会が始まります。その準備もあります。体調を見ながらひとつひとつこなして行きたいと思います。

福島の子供たちの45%が内部被曝!

2011-08-18 22:24:19 | プロフィール
福島の子ども、半数近くが甲状腺被曝 政府調査で判明

 東京電力福島第一原子力発電所事故をめぐり、政府の原子力災害対策本部は17日、福島県の子ども約1150人を対象にした甲状腺の内部被曝(ひばく)検査で、45%で被曝が確認されていたことを明らかにした。17日、同県いわき市で開かれた説明会で発表した。すぐに医療措置が必要な値ではないと判断されているが、低い線量の被曝は不明な点も多く、長期的に見守る必要がある。

 検査は3月24~30日、いわき市と川俣町、飯舘村で0~15歳の子どもを対象に実施した。原子力安全委員会が当時、精密検査が必要だと決めた基準は甲状腺被曝線量が毎時0.20マイクロシーベルト以上。1150人のうち、条件が整い測定できた1080人は全員、0.10マイクロシーベルト以下だった。

 この日、説明会には、検査を受けた子どもの保護者ら約50人が参加した。対策本部原子力被災者生活支援チームの福島靖正医療班長は「問題となるレベルではない」と説明した。

 全体の55%の子は検出限界も含み測定値が「0」だった。「0」超では、0.01マイクロシーベルトが26%いた。0.02マイクロシーベルトが11%で、最高は0.10マイクロシーベルトだった。

 3月の検査時に、その場で「健康に影響はない」とする結果が保護者らに伝えられた。ただし数値は通知されず、説明を求める声が上がっていた。

 対策本部は、当時18歳以下の県内の子ども36万人について、福島県が一生涯続ける予定の甲状腺の超音波検査への協力を呼びかけている。毎日新聞(林義則、大岩ゆり)


「やっぱりそうだったか」というのが偽らざる気持ちです。あの水蒸気爆発があった3月12日、政府は放射能の拡散を一般に知らせず多くの市民が被曝するのを手をこまねいて見ていました。その責任はすべて政府にあります。そしていまも福島の子供たちは放射能の被曝を受け続けています。

本当に「健康に影響はない」「問題となるレベルではない」と断定できるのでしょうか。あのチェルノブイリで見られたような白血病やガンになる可能性は全くないのでしょうか。政府のいう言葉はもう誰も信じていないでしょう。

8月20日(土)、東御市中央公民館で午後1時半から、「福島の子供たちを放射能から守ろう」という講演会があります。講師は「子供たちを放射能から守る福島ネットワーク」のお母さん。どうぞおいでください。

終戦記念日について考える(3)

2011-08-16 05:59:34 | 雑感


終戦記念日でもありもう少し父のことを書きます。前掲の「昭和戦陣禄」の本のページに「善行証書」なる紙片が挟まっていました。内容は以下の通りです。

「善行証書 
長野県 歩兵第7連隊 陸軍上等兵 若林平一郎
右、現役中品行方正勤務勉励学術技芸に熟達す、因ってこの証を付与す
昭和 年 月 日

歩兵第7連隊長 陸軍大佐従五位勲三等 朝生平四郎」(原文は旧仮名遣い)


これによれば父は歩兵第7連隊に配属されていたようです。「昭和戦陣録」によれば414部隊となっていますが、部隊名は軍事機密でありその配置を秘匿するために414部隊という通称が使われたのです。例えば森村誠一が書いた小説「悪魔の飽食」に出てくる731部隊の正式名称は「関東軍防疫給水部本部」です。

歩兵第7連隊は歩兵第19連隊、歩兵第35連隊、山砲兵第9連隊、工兵第9連隊、輜重兵第9連隊、などとともに第9師団を構成していました。第7連隊の最後の司令官は確かに朝生平四郎大佐となっています。

調べてみると第9師団はもともと対ソ連戦を想定して満州の守りについていました。ところがサイパンが玉砕するなど南方戦線の激化に及んで、満州から引き抜き沖縄に移動させられました。沖縄守備の第32軍の予備兵力として司令部を初めは首里の県立師範学校に、その後南部の大里村に置かれました。

ところが11月17日になって台湾に移動しました。台湾の守備を固めるという名目でした。その前月10月10日に台湾空襲があり、12日には台湾沖航空戦がありました。このためサイパン、テニアン、グアムの次の米軍の目標は台湾だと思われたのです。10月24日にはレイテ沖海戦で戦艦武蔵が沈んでいます。

しかしアメリカは次の目標を沖縄に定め台湾を素通りしてしまいました。このことに対して当時大本営作戦課長であった服部卓四郎元大佐が第9師団を台湾に移動させたことに対し「魔がさしたとしか思えない。一世一代の不覚であった」と述懐しているそうです。第9師団は武勲高い歴戦の師団でしたが太平洋戦争時、一度も戦うことがなかったそうです。

いずれにしても父は一度も戦火を交えることなく終戦を迎えました。もし満州にいればソ連軍との戦闘・シベリア抑留は避けられなかったでしょうし、沖縄にいれば玉砕を免れなかったでしょう。まさに運命の分かれ道の中で生き残ることができました。大本営にとっては一世一代の不覚かもしれませんが、父とわが家にとっては幸いでした。

父は31才で出征し33才で帰還を果たし、翌年34才の時兄が生まれ、1年おいて36歳の時私が生まれました。父から台湾で終戦を迎えたこと、菜園を経営していたことは聞きましたが、どのような経緯で満州から台湾に行ったのかは聞いたことがなかったので、今回調べてみて初めてその事情が分かりました。

滋野村発行の「昭和戦陣録」を久しぶりに紐解いてみて、あらためてわが家と戦争との関わりを考えさせられました。

終戦記念日について考える(2)

2011-08-15 03:08:59 | プロフィール
前日のブログに書いた「昭和戦陣録」についてもう少し書いてみようと思います。この本は青いクロスの表紙で箱に入った全文230ページに及ぶ立派なものです。表題は「昭和戦陣録 滋野村」と墨書され「村会議長 大村忠男著」とされています。

このことからわかるようにこの本は単に有志によって編まれた本ではなく、当時の村議会議員22名、田口孝雄村長始め村の幹部8名、区の総代8名、一般から選ばれた編纂委員40名、計78名によって編集された公的な記録ともいえるでしょう。

この序文で「滋野村長 田口孝雄氏」は以下のようにその思いを綴っています。

「満州事変勃発より太平洋戦争終結に至るまでの十ヵ年の日本が歩んだ途、その批判は後世歴史家に任せるとするも、日本民族史上最大努力であり変化でもあった。

この特異の歴史の各頁についてわれわれ郷土滋野村の人々の中よりも直接参加し、百六十余の尊い人命が犠牲となりその外に七百名近くの若き人々が従軍された。われわれ村民は、講和締結を機とし、これ等の方々を慰労し、その努力を永遠に子孫に伝うるため、ささやかながら、ここに村議会の議決を経て『昭和戦陣録』を編纂して上梓した。

ここにこれを戦没の方々の霊前に供えそしてまた出征帰還の方々に贈って村民一同とともにその労に対し感謝を捧げたいと思う。各位××(判読できず)の編集不備を責めらるることなくその意を諒とせられて御高覧の上、先人の労苦を偲び、感謝の真心を捧げていただきたい。以って序とする」(原文は旧仮名遣い)


これに対して「滋野村遺族会長 滝沢好太郎氏」は下記のような序文を書いています。

「滋野村においては、村議会の議決により村経済多事なるにもかかわらず、多額の費用を以って近隣に未だ類例をみない『昭和戦陣録』を刊行された。これは満州事変より太平洋戦争に至るまでの本村出身者の戦没者ならびに出征帰還者の戦歴を登載したものである。

顧みれば終戦後7ヵ年、吾々のいとし子、最愛の夫たちが、護国のために、幾百千里離れた見知らぬ異境の果てに散って行ったのであるが、公には慰めの言葉一つなくまことに寂しい限りであった。

しかるに、本村においては、さきに盛大なる戦没者慰霊祭を挙行していただき、いままた、ここに温情あふるる記念と慰めを贈っていただき、万感新たに胸中に湧き、さぞかし地下の霊も満足のことと察せられ喜びにたえない。

ここに遺族会長として、滋野村のこの計画に感謝するとともに、感激の一端を綴ってあいさつとしたい」(原文は旧仮名遣い)


いずれも日付は1952年(昭和27)年8月28日となっています。文章中にもあるように日米講和条約の締結が1951年9月8日、その発効が1952年4月28日であり、「昭和戦陣録」はこの発効をまって刊行されたものです。

しかし、当時は戦争の暗い記憶を払拭し新生日本の建設に向けて歩みだしたばかりです。そんな時、あらためて戦争の記憶を呼び覚まし、一人ひとりの戦歴に想いを寄せるという行為はなかなかできることではなかったと思います。ちまたには傷痍軍人もあふれていたでしょうが顧みる人とてなかったのではないでしょうか。わが滋野村の先達たちはそんな中で戦争の「批判は後世史家に任せ」、従軍帰還者、戦没者を「慰労し、その努力を永遠に子孫に伝えるため」、昭和戦陣録を刊行したのです。

昭和戦陣録は「戦没者追想録」と「出征者追想録」に分かれ、それぞれ集落ごとに掲載されています。ちなみに私の父、若林平一郎はすでに亡くなって数年たちますが、以下のように記載されています。

陸軍歩兵上等兵 若林平一郎 大正2年2月10日生
中屋敷若林末作氏長男に生る。本郡長村青年学校教諭。
昭和19年5月12日金沢東部第49部隊に応召。
5月17日門司にて乗船、釜山より牡丹江郊外414部隊転属、
7月17日沖縄本島那覇市に上陸。台湾新竹台北等各地に転戦。
沖縄作戦において暗号手として直接間接に参加。
終戦後の自活農園を拡充して経営主任を務む。
中国捕虜収容所に入り米軍輸送船により浦賀に上陸、21年1月復員す。


これをみると私の父は満州、沖縄を経由し、終戦は台湾で迎えたものと思われます。満州や沖縄にそのままいたら戦争によって命を落としていたかもしれません。そうしたら私も存在しません。まさに紙一重のところで生きて帰って来ることができたのです。また終戦で捕虜になった後、自活農園を経営するなど、農業教師としての経験を生かした活躍をしているのは興味深いところです。

こうしたごく一般の兵士一人ひとりの戦歴まで事細かに記した文書はあまり類例はないのではないでしょうか。

昨今の平和教育の中で太平洋戦争に従軍した兵士が侵略者として顧みられないことは誠に残念に思います。戦争はどうあれその中で国のため郷土のためにせいいっぱい戦った兵士を慰労したこの滋野村の取組みに対して心から敬意を表します。

ちなみにアマゾンでは古書としてこの本を取り扱っているようです。

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