加山到のハマッ子雑貨飯店

おもちゃ箱をひっくり返したような楽しい雰囲気が伝われば嬉しいなっと。08年11月6日開店!

後期ピンクレディー3作品

2023-05-20 | レコード

ピンクレディー 1979年の3作品
1979年には6曲もシングルを発売していたんですね。驚き。どんな戦略だったのでしょうか?

「波乗りパイレーツ」(1979年・ビクター)

この頃のピンクレディーはアメリカ進出を計画していたこともあり、同年5月にはビレッジピープルのヒット曲「IN THE NAVY」を日本語でカバーした「ピンクタイフーン」をリリース。 次作の「波乗りパイレーツ」ではザ・ビーチボーイズがコーラスに参加。 そして遂に9月に全米デビューシングルとして「KISS IN THE DARK」の発売に繋げ、現地を拠点に活動スタート。テレビでは冠番組まで制作されました。

「キッス・イン・ザ・ダーク」(1979年・ビクター)

アメリカでの活動は順調だったようで、更に大人への脱皮という意味もあってか、「阿久悠・都倉俊一のコンビが『そろそろ、子どものお客を無視した、ミーとケイ、ふたりのための曲を作ろう』と話し合った上で作りあげた。」(Wikipedia記)と作られたのが「マンデー・モナリザ・クラブ」。こちらもアメリカのミュージシャンを起用しロサンゼルスで録音されたようです。

「マンデー・モナリザ・クラブ」(1979年・ビクター)

動画サイトで見ると、一見今までの楽曲とあまり変わらないようなリズムや作風、振付と思うのですが、年齢的にも成長した二人のパフォーマンスや雰囲気は、「アラベスクのような大人の色気を感じる」「この頃のピンクは素敵」といった反応が多かったようですね。確かにステキでカッコいいかも

前年の1978年の紅白歌合戦出演辞退、その後の事務所とのトラブル、プライベートでのゴシップ、そしてアメリカ進出に伴う日本での露出減少、更には松田聖子を筆頭とした新たなる歌謡アイドルやニューミュージックの台頭などにより、残念ながら人気が急落。帰国した1980年に解散宣言、1981年3月に解散コンサート@雨の後楽園球場・・・。当時高校生だった私は、「これが”時代の変化”なんだなぁ」となんとなく思った記憶があります。

コメント (2)
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