2時間弱の事務的作業のBGM。
上から………
🔺「荒野のドラゴン」(1973年)
イタリアのカンフー映画のサントラ。原題は「シャンハイ・ジョー」。主演はチェン・リー/実は現地在住の日本人空手家の早川明心。
🔺「俺たちの朝」(1976年)
ご存じ日本テレビの青春ドラマのサントラ。音楽担当はトランザム。オッス・チュー・カーコの共同生活。今でいうシェアハウスか。
🔺「スクリーンミュージック/ナウ・スクリーンテーマ」(1975年)
この頃の映画音楽オムニバス盤は何枚も持っているんです。なぜかと言いますと…ブルース・リー関係が必ず収録されてますから(笑)。もちろんこれにも「燃えよドラゴン」が😊
他に華麗なるギャツビー、かもめのジョナサン、エマニエル夫人、ゴッドファーザー、エクソシスト、雨に濡れてもタワーリング・インフェルノ、エアポート75などなど。
🔺「ディス・イズ・クリエイション スタジオ・ライブ」(1978年)
ノリが良くて明るくてウキウキしてくる…ウエストコースト・ロックを彷彿させる楽しいアルバム。
朗読・立ち食いソバに続き高田馬場第3弾(笑)会場近くを散策したら、すぐ近くに映画館がありました。
「早稲田松竹」もうね、たたずまいも名称も昭和の映画館そのものだぁ~~~
立て看板に「豪華ラインアップ」このフレーズもザ・昭和 「○○日~○○日マデ」という表記も古くて新しく思えます
今度は映画を見に来なきゃ~~~~
朗読会で赴いた高田馬場
高田馬場駅早稲田口を出た正面にある立ち食いそば店。以前何度か通り過ぎたことがあったのですが、なんと!「7月末日で閉店」の張り紙が!
46年の長きにわたり・・・という事は1976年開業なんですね。
「立ち退きなんですよ。ここから後ろの何軒か、全部・・・。」 また昭和風情が消えていきます。
「電車が通るたんびに揺れてね。ガタゴトうるさいんだけど、今となっては・・・ね。」高齢のおやじさん、寂しそうでした。
長い間、お疲れ様でした
朗読ユニット「ケイコの稽古」第2回公演『シェークスピア/ベニスの商…に…ん?』
過日、無事に幕が開き幕を閉じました。と言ってもたった一日/2回公演でしたが(笑)
高田馬場にあるイベントスペース「ときわ座」。築60年の元生花店。店舗のあった部分が私たちの朗読スペース。周囲と奥座敷の部分にお客様に座って頂き、古き良き昭和の雰囲気の中でのシェークスピア作品に挑みました。
写真はリハーサル時。
本番では白Tシャツ&ブルージーンズ。多くの登場人物をたった4人で演じ分けるためにも、無味無臭の意味をこめてシンプルな衣装にしました。
本来の戯曲では3時間ほどになる作品を半分ほどにカット短縮し、観客に分かりやすく伝わる内容にしました・・・と言っても約100分(10分の休憩あり)もの間ひたすら読み倒してちょこまかと動き、終演時には暑さも手伝ってフラフラ&呼吸困難(笑)
気の合う仲間と優しい観客に囲まれての楽しい一日でした
1972年7月21日(金)夜8時。萩原健一演じるマカロニ刑事が愛車に乗って出勤する場面から「太陽にほえろ!」は始まりました
当時私は小学3年生でしたが、放送が始まる1カ月前に、父親の仕事の都合で中国・北京に行ってしまったばかり。もしそのまま日本にいたら、果たして第1話から見ていたのでしょうか・・・? だって、その頃の私は仮面ライダー1号に夢中になり、ドリフの全員集合にのたうち回り、毎日のようにランドセルを放り出して近所の駄菓子屋に入り浸っていた子供でしたので、大人が見るような刑事ドラマに興味はなかったかもしれません。
(七曲署屋上にて)
そんな私が太陽!を知ったのは、たぶん上海に移り住んだころ。日本から毎月取り寄せていた「中1時代」という雑誌のカラーグラビアだったと思います。「へぇ、日本ではカッコいい刑事のドラマが流行っているんだ・・・」
1977年9月に帰国。ロッキー刑事が新人として配属された直後あたりから、毎週見始めたわけです。当時はとにかく次から次へと刑事ドラマが放送されましたが、数ある中でもやはり太陽!はダントツに人気があったのは間違いなく、私自身も他の刑事ドラマのではなく太陽!のレコードを買ったわけです。以来、小遣いをためたり友達に借金したり、後年は中古店を回ったりネットで発見したり・・・他番組とのオムニバス盤など関連レコードを含めて買い集めてしまいました
高校や大学時代も太陽!は好き!という気持ちは変わらず持っていましたが、寮生活でテレビが1台しかなかったことやアルバイトが金曜日だったことなどから、なかなか太陽!自体を見ることはできず、その情熱は少しずつ薄れてはいました。ですが、就職を考える時期になり・・・「七曲署の刑事になる!」と決めた時から、またまたその情熱は燃え上がりました(笑)。ただ、家庭の事情もありいったん航空会社に就職し、再び俳優になろうと一歩を踏み出したときには番組は既に終了、ボスも空へと旅立っていました。気持ちを切り替え「太陽!のメンバーと共演できるように頑張ろう」と俳優業に力を注ぎました。
何度かそんな機会に恵まれ、ドラマや映画ではジーパンのお袋さん、ゴリさん、ボギーと、番組にゲスト出演した早坂直家さん、井上高志さん、山本亘さん、斉藤こず恵さん、伊藤真奈美さん(ラガーの恋人)、大和田伸也さんとは舞台で何回か共演。個人的にはボンや殿下、ブルースと親交を持つ機会にも恵まれました。池袋の駅でロッキーに遭遇した時には天にも昇る思いでしたね。
2000年代に入りインターネットが一般化。ネットを通じて、それこそ北は北海道から南は九州まで多くの太陽!ファンと出会い、今でも交流が続いています。個人的に連絡を取ったり、直接お会いして太陽!談議に花を咲かせることが出来ているのも、また、そんなファンの後押しもあって岡田晋吉プロデューサーや柏原寛司さんとも会うことが出来たのも、俳優人生としての活力になっています。
気がつけば、いい大人がこんな遊びもしちゃっています(笑)
多くの太陽!ファンがおっしゃっているように、私も太陽!から「温かさ」とか、「優しさ」とか、「暴力ではない強さ」とか、「生き方」とか、「素直さ」などを学びました。そして何よりも番組の世界観を楽しんで来ました。太陽イズム・青春ドラマイズム・岡田晋吉イズム・・・できるだけ継承しながら、これからも『太陽にほえろ!』を楽しんでいきます
願わくば、七曲署捜査一係の刑事になるという夢を叶えたい。
横浜銀蝿のドラマーでありリーダーの嵐が旅立ちました。2022年7月4日。肺炎。67歳。
10数年前に脳梗塞を患うも、奇跡的な回復力で復活。ステージを務めていました。サポートドラマーをつけながらも、日々人工透析を続けながらドラムを叩くなんて、尋常じゃな~い!すごいよ、嵐!
初めて横浜銀蝿を見たのは、やっぱり高校時代のTBS「ベストテン」かな。あのいで立ちで、強面で、でも「ツッパリhigh schoolロックンロール」イントロの「行って来ま~す!」にへッ?とずっこけた記憶があります。それまでダウンタウンブギウギバンドやツイスト、柳ジョージ&レイニーウッド、チャー、矢沢永吉・・・「ロックはがっつり骨太」と捉えていた身としてはなんじゃこりゃ?となったわけです。
それでも、親しみ易いロックンロールのリズムに面白かったりカッコよかったりする歌詞がのっかって、これでもかというぐらいテレビを見ている僕らに畳みかけてきましたね。気がついたら僕も文化祭や学内コンサートでこの曲を演奏していました(笑)。
「ぶっちぎり」(1980年・キングレコード)
デビューシングル「横須賀BABY」と同時に発売された1stアルバム。イケイケのロックンロールがあるかと思いきや、「尻とりロックンロール」「そこのけロックンロール」など14秒とか56秒の楽曲もあって、「こりゃ、イロモノバンドだな」と正直思いました。しかしながらその後もヒットを飛ばしベストテンの常連となり、武道館を満タンにして、存在感も人気も絶頂期の時に”公約通り”解散。たった3年間で日本国中の少年少女を虜にしただけでなく、音楽業界にもインパクトを与えました。その後はそれぞれの活動が中心となりましたが、3人で再結成したり、昨年はデビュー40周年を記念して「この4人で最初で最後の再結成」で年間ツアーを慣行しました。
忘れたくても忘れられない、記憶に残り、体に染みついているジャパニース・ロックンロールバンドですね
嵐さん。安らかに。