「私は遺伝子と環境で出来上がる」という行動遺伝子学の説がある。この定義を証明するために幾つももの研究がある。そのひとつに「一卵性双生児」の研究がある。顔がほぼ同じだというのは遺伝子。齢を重ねるにつれて二人は徐々に性格も異なってくるのは環境が原因だと、ぼくの言葉で大雑把に言えばそうなる。
ぼくはよくわからないが、人間の遺伝子は石器時代から変化はしていないと思う。突然変異で遺伝子の配列が癌のような病気を起こすことがあるが、という前提付きである。
受精の瞬間に、母・父各50%の遺伝子が「私に組み込まれる」ことになるがそれは誰も拒否できるものではない。いわば決定論のようなものだ。
ぼくは違う考え方をしている。
受精を経て、母から子へ伝わるのは遺伝子もあるが、人類の誕生、霊長類の誕生、哺乳類の誕生、鳥類、爬虫類、両生類、魚類、植物と動物への分岐点、そしてそれ以前の記憶、つまりこれまでの記憶が伝わっていくのではないかと考えている。もちろん証明できるわけではないが、「遺伝子絶対説」より、この記憶説(ぼくはそう呼ぶ)のほうがすんなりと腑に落ちる。サヴァン症候群はその記憶のいくつもある扉のひとつ、ふたつが開いてしまったから起こると考えると納得できるような気がする。
天才的な音楽家が誕生するまで三世代かかると聞いたことがある。三世代の間に遺伝子が変化したのではない。記憶を作る脳に音楽の経験や知識などの記憶をため込んでおく場所があり、さらに努力をして腕前が上がることになるのではないか。と言ってもヒトという物の限界点があるだろう。
卓球の愛ちゃんの子供は三代目になると思うが。愛ちゃんが卓球選手に自分と同じように教えたとすれば、きっと愛ちゃんを凌ぐものと思う。
しかしながら親に意よりも友人仲間のような集団や個人的な友達のほうに傾いていくように人間はなっている。親から離れていくわけである。人間はそのように設計されているとは思う。これは遺伝子である。だから愛ちゃんの子供は潜在能力として卓球の才能を持ちながら、それを使わない可能性もある。
もちろんこの記憶をため込む脳の部屋もヒト遺伝子が作っている。それはヒトは必ず持っているものである。その部屋の大きさはどれほどのものかわからないが、ギガやデラよりも大きいものなのだろう。
ぼくの父は本を読んでいた。本棚に小説などがあったからきっと読んでいたのだろう。ぼくは中学三年生から小説などを読むようになった。おそらくぼくの息子はぼくの記憶をもって生まれている。そして読書をすることに入りやすい礎があったのではないか、そんなことをある時期に思ったことがある。
「遺伝子」を重視すればとんでもない優生思想を生んでしまうことにもなりえる。「記憶」というキーワードでは世界に分布する人間を歴史的段階としてとらえることができるし、悪人の子は悪人という考え方を排除することができる。運動神経の悪い親の子は運動神経の悪い子どもができる、という考え方も排除できる。
橘 玲(たちばなあきら)の「言ってはいけない残酷な真実(新潮新書)」を読んで、異を唱えてみたくなった。
ぼくはよくわからないが、人間の遺伝子は石器時代から変化はしていないと思う。突然変異で遺伝子の配列が癌のような病気を起こすことがあるが、という前提付きである。
受精の瞬間に、母・父各50%の遺伝子が「私に組み込まれる」ことになるがそれは誰も拒否できるものではない。いわば決定論のようなものだ。
ぼくは違う考え方をしている。
受精を経て、母から子へ伝わるのは遺伝子もあるが、人類の誕生、霊長類の誕生、哺乳類の誕生、鳥類、爬虫類、両生類、魚類、植物と動物への分岐点、そしてそれ以前の記憶、つまりこれまでの記憶が伝わっていくのではないかと考えている。もちろん証明できるわけではないが、「遺伝子絶対説」より、この記憶説(ぼくはそう呼ぶ)のほうがすんなりと腑に落ちる。サヴァン症候群はその記憶のいくつもある扉のひとつ、ふたつが開いてしまったから起こると考えると納得できるような気がする。
天才的な音楽家が誕生するまで三世代かかると聞いたことがある。三世代の間に遺伝子が変化したのではない。記憶を作る脳に音楽の経験や知識などの記憶をため込んでおく場所があり、さらに努力をして腕前が上がることになるのではないか。と言ってもヒトという物の限界点があるだろう。
卓球の愛ちゃんの子供は三代目になると思うが。愛ちゃんが卓球選手に自分と同じように教えたとすれば、きっと愛ちゃんを凌ぐものと思う。
しかしながら親に意よりも友人仲間のような集団や個人的な友達のほうに傾いていくように人間はなっている。親から離れていくわけである。人間はそのように設計されているとは思う。これは遺伝子である。だから愛ちゃんの子供は潜在能力として卓球の才能を持ちながら、それを使わない可能性もある。
もちろんこの記憶をため込む脳の部屋もヒト遺伝子が作っている。それはヒトは必ず持っているものである。その部屋の大きさはどれほどのものかわからないが、ギガやデラよりも大きいものなのだろう。
ぼくの父は本を読んでいた。本棚に小説などがあったからきっと読んでいたのだろう。ぼくは中学三年生から小説などを読むようになった。おそらくぼくの息子はぼくの記憶をもって生まれている。そして読書をすることに入りやすい礎があったのではないか、そんなことをある時期に思ったことがある。
「遺伝子」を重視すればとんでもない優生思想を生んでしまうことにもなりえる。「記憶」というキーワードでは世界に分布する人間を歴史的段階としてとらえることができるし、悪人の子は悪人という考え方を排除することができる。運動神経の悪い親の子は運動神経の悪い子どもができる、という考え方も排除できる。
橘 玲(たちばなあきら)の「言ってはいけない残酷な真実(新潮新書)」を読んで、異を唱えてみたくなった。